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祈りの場・小さな清き泉

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2006.10.30

この春、友達が家を建てた。
「祈りの場が欲しかった」という友達の言葉に深く感銘する。
別に、彼女は特定の宗教を持っているわけではない。
彼女の言う『祈り』とは、祈祷する(神仏にその加護・恵みを求めてお願いする)ことではなくて、現実を生きていく中でどうしても自分の中にたまってしまうオリみたいなものを、きれいにすることなのだ。
だから『祈りの場』と言うのは、それをするために自分が静かにできる場所。
森の奥深くにある、小さな小さな清き泉のような場所だ。
誰にも見つからず、つまりは誰の干渉も影響も受けずに、安心できるとっておきの秘密基地みたいなもの。
そういう場所が欲しかったのだそうだ。

私にとっての祈りの場所は、育った浅間高原の大自然だった。

  雄大な浅間山
  蒼い空
  鮮やかな夕焼け
  流れゆく雲
  降りそそぐ星々

子供の頃、心を許せる人は一人もいなかったけれど、私にはあの大自然があった。
無尽蔵のエネルギーに溢れていて、人の手の及ばない畏れおおいなにかがあって、決して昨日と同じではないのに変わらない確かなもの。
あの力強い静かで美しい祈りの場があったから、私は生きてこられたと思う。
大人になって田舎から離れて暮らしているが、私の中には子供のころに刻み込んだあの大自然の引き出しがある。
最初はなかなか開けられなくて、疲れ果てるとよく小石川植物園に行って、疑似大自然体験をしたものだ。
最近は小石川植物園という鍵がなくても、あの引き出しを開けることができるようになった。
自分が疲れて薄汚れてきたような気がするときは、静かにベランダやお風呂の中で、あの大自然の気っぷのよさを思い出す。
どんなに夜が暗くても朝は来るし、どんなに冬が厳しくても必ず春になる。
その確実さが安心となって、日常生活でザワザワと波立ってしまった私という泉の水面がだんだんと静かになるのだ。

あっ、別に自然がすばらしくて、自然のない都会はダメだって言ってるんじゃないよ。
私にとっては祈りの場が大自然だったから大切だったというだけのことで、人それぞれ、大切なその人にとっての『祈りの場』があるといいなと思う。

たとえば時間を忘れて読書に没頭できる図書館とか、責任がない分甘えさせてくれる祖父母とか、一冊の本、一枚の絵、一杯のお茶・・・とにかく人の目を気にせずに自分でいられる場所・・・そういう安心できる居場所が、どんな人にもありますように。

本当は、家族という小さな砦が祈りの場であって欲しいと思う。
とくに幼い子ども達が育ちゆく環境ではなおさら、そういうきれいな静かな安心できる場所が絶対に絶対に必要だから、小さくても豪華でなくてもいいから、大人はそういう場所を提供する義務があるのだ。
自分の感情的な思いで、子ども達から祈りの場所を取り上げないで欲しい。
そしてすでにそれを奪われてしまった子ども達にも、絶望して欲しくない。
バカな大人がそれを与えてくれなかったなら、自分で祈りの場を作ればいいんだから。

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この連休は、北軽井沢に帰省していました。
この記事を書いた当時は、10年後くらいに北軽井沢に家を建てるなんて思ってもいなかったけど、私の『祈りの場』をあきらめなくてよかったなぁと思います。

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