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私が登る山。その整理がついた時に青年会議所の活動に目的意識と吸収力が高まった。

昨日の加藤宗兵衛さんの講演をお聴きし、情報量がものすごかっただけに今日一日仕事をしながら咀嚼していました。そして、振り返ってみて、自分の山はどこにあるんだっけなと。数年前からこの活動を通じて漠然と思い描いていたものが、明確に自分の山だったんだなと再認識できました。

私のまちづくり活動の原点はNPO

2013年に茅ヶ崎青年会議所に入会しましたが、実は入会に当たっては多くの方々に相談に乗っていただきました。例えば、当時はなかなか仕事がうまくいっておらず、行政書士会の先輩方のおかげで何とかやっていけている状況でした。

そんな中で、青年会議所に声をかけていただいたときに、ほぼフリーランス状態の私が入会して大丈夫なのか、ついて行けるのだろうか、心配が多かったのが正直で、そのことを同業の先輩方にも相談に乗っていただいたわけです。

その時の反応は、「やめておいた方が良いと思う」「飲んでいるだけの集まりだよ」というものもあれば、「北川さんには合うと思うよ」「人脈ができるんじゃないか」というものもあり、自分の中でモヤモヤして悩んだことを思い出します。

ただ、決定打になったのは私のもう一つの軸だった、NPO法人での活動でお世話になっていた大先輩の言葉でした。

私は、青年会議所に入会する1年半ほど前、茅ヶ崎市民活動サポートセンターの管理運営を行う特定非営利活動法人NPOサポートちがさきと言う団体の門を叩きました。当時、NPO法の大改正があり、行政書士としてNPO法人とどのように関わっていくかを勉強するため、インターネットで調べていたらこの茅ヶ崎市には益永さんというすごい女性がいるということが分かりました。それで、話を聞いてみよう!と思って訪問したところ、「一緒に活動しましょうよ!」と巻き込まれ、気が付けばその一員になっていました。

そのNPOサポートちがさきは中間支援組織という位置づけになりまして、法人名にもあるように、NPOを支援するNPO、行政とNPOをつなぐNPOという活動です。

そのNPOサポートちがさきではサポセンを運営しており、さらに私は「企業・NPO・行政・大学」の協働(パートナーシップ)をいかに育んでいくかをテーマにプロジェクトに参画させていただきました。

その活動は今も従事しており、またの機会に触れますが、茅ヶ崎青年会議所に入会するかどうかを悩む私を見かねてか、私の倍以上を生きている先輩から、

「てっちゃんね。
 声をかけてもらえるうちが華(はな)、という考えもあるよ。」

この言葉が私の背中を押してくれました。

「そうか、これは縁であり、私はとにかく飛び込んでみて、ダメなら辞めてしまえば良いんだ。」

これが私のスタートでした。

尊敬する人たちのJC後のライフ

このようなところからスタートした私は、目的を定めました。それは、NPOサポートちがさきで取り組んでいる「企業・NPO・行政・大学」の協働プロジェクトで壁にぶつかっていた、企業のNPOに対する認識の低さを、自分が企業関係者の方々と接点を持って、NPOとつないでいこうというものでした。

なぜ、企業やNPO、行政や大学も協働をするのかといえば、社会課題が細分化して多様なニーズが生まれている中で、誰にとっても住みよいまちを創るためには、企業サービスだけではカバーできず、かといってNPOだけでは力が弱く、行政だけでも届かず、大学の専門的な知見も活用をして、相互補完・相乗効果でまちを良くすることができるはず、という仮説に基づくものでした。

基本的に、この考えは今もまったく変わっていなくて、むしろSDGsのGoal17でパートナーシップが掲げられた時に、「やっとこのプロジェクトを推し進めやすくなる」と思ったくらいでした。

ただ、私はまだまだ視野が狭かったと振り返っています。それは、昨日の加藤宗兵衛先輩の講演を聞いていて、「たしかに!」と思って気が付きました。


私の登る山は気が付けば社会課題の解決に決めていた

青年会議所に入会して、翌年くらいから色んな経験をさせていただきました。

2013年 入会。青年会議所のメンバーの皆さんのパワーや優しさに驚く。ただ、自分の弱さが先行して、言い訳をして積極的に参加せず。
2014年 広報委員会の幹事。JCの活動をまずは全部出てみて、自分なりに理解しようと思って諸大会にも参加。東日本大震災後の数年にわたるフォーラムや、それに伴って一人で東北を歩く中で、まちが壊れることの原体験をする。また、友好JCという関係とのことで、シンガポールで開催されたAsianAcademyという事業に唯一の日本人として参画。しかも初海外だったにも関わらず、2週間の滞在でそのうち1週間はチャイナタウンのドミトリーのようなところで泊まり、現地のローカルな生活に交じって過ごすなどもしました。(この話しもそのうちします)
2015年 初委員長。10人ちょっとのメンバーで物事を成すことの難しさと、魅力を痛感する一年。同時に、グローバルリーダー育成塾という日本青年会議所の事業にも参画させていただき、「ワシントンから社会の出来事を見ろ」という衝撃的なメッセージに出会う。
2016年 総務広報委員長。組織の下支えをするという立場の醍醐味のようなものを感じる。また、広報も岩澤理事長からお尻を叩かれ続け、コンテンツをたくさん作った。
2017年 事務局長。この年は渡辺久夫先輩を追いかけて日本青年会議所に小幹事という立場で出向させていただく。ブランディングをテーマに全国の方々と一年走りまわる。取材の一環で首相官邸にも、各省庁にも、東京大学にも、その他いろいろなところで専門的なお話しを拝聴することができ、社会の動きに関心を持ち始める。
2018年 副理事長。創立50周年記念式典の年。多くの先輩方と接点を持たせていただき、様々なお話しをお聞きする。(この経験はすごく今の私の背骨になっている)
2019年 副理事長。日本青年会議所に副委員長という立場で出向させていただく。総活躍社会確立委員会という社会系の委員会で、インクルーシブをテーマに女性活躍、就労支援といったテーマで、勉強しまくる一年。たくさんの人に出会い、全国を移動して、本業の中身にも大きく影響を与えてくれた一年。
2020年 専務理事。小林理事長の圧倒的な優しさと懐の深さに、私自身の人生観が動かされた。自分にとってのメンターとなる人が増えたことが最大の喜び。

こんな感じで今年になりました。自分は成長してる!というようなことを言うつもりはないですが、少なくとも自分がこれだけ青年会議所でそれなりに前向きにたくさんのことを教わってきた背景には、

社会課題を解決できる力を身につける

というテーマを自分なりに持つようになって、それは仕事でもそれ以外でも同じ目標になったからです。NPOで活動していたテーマに結び付けようとしていただけでなく、それ以上の目標ができました。加藤宗兵衛先輩の言葉を改めてお借りして、これが私が登る山として整理をしました。

仕事でもこれをテーマになりました。青年会議所でこの力を別角度から身につけ、社会性や、組織の理解、リーダーシップなど、本業で学ぶには絶対に時間が足りなかったり、日常に追われて後回しになってしまっていたであろうことを、仕事も並行して、(結構ズタボロになりながら・・・)何とかかんとか今日に至っています。

今回はとてもパーソナルな私自身の山の話しです。

次は、私がこの一年で描いた山について綴ってみたいと思います。


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