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六月の花嫁の行方

18歳で嫁いで19歳で長男、21歳で長女を出産した私は思い描いた通りの人生を歩んでいました。

お金が無くても愛があれば大丈夫!

純粋だったな〜あの頃は…

嫁いだ先は超倹約家の義父、家事は全く出来ない義母、私の名前を源氏名として遊び呆ける義理妹
今となれば笑ってしまう生活だが
夜10時に消灯でブレーカーを落とされる
朝5時起床して父、妹、旦那、子供達を順番に朝ご飯を食べさせて、朝が苦手な母がご飯を食べるのは9時過ぎ、嫁の私はその後台所で1人流し込むように食事を済ます。

長男は、肌が弱く布オムツしか使えなかった
何故かオムツの洗濯は星空を見上げながら
竹竿の物干し台に干す。
実家の母には夜干すとおねしょするよ!と
迷信?を言われたが日中洗濯の許可が貰えなかったので仕方がない…
勿論洗濯機は2層式!
ただ倹約家の我が家は濯ぎは金のタライで
濯ぐのが当たり前水を出しっぱなしで濯ぐなんてありえない笑

色々あって親子水入らずでアパートに出るも
生活費2万円(旦那の小遣いは、10万円➕こっそり母からも貰っていたらしい)
車を勝手に買い替える旦那に対して
私の愛車はママチャリ
仕事も良く上司と喧嘩して辞めてしまいます
携帯電話のない時代に家電も要らない!と
連絡を取る手段は近くの電話BOX

それでも世間を知らなすぎる私は
そんなもんだと子供達との生活をそれなりに楽しんでいました。

長女がハイハイを始めた頃義母が癌になり、近所の親戚が集結、会議の結果嫁がみるのが当然だろう!という話になって22歳だった私の
自宅での介護が始まり、アパートと実家を
ママチャリで通い長女のオムツ、義母のオムツを換える日々を過ごし自宅で看取りました。

その後義父が用意した職場で働くようになった私はようやく世間を知り、子供達の面倒も見ずに
夜中まで仕事と言いながら帰りの遅い旦那と
5年かかって別れ、子供達を連れて実家に帰れると思っていた私でしたが実家の母から
「お兄ちゃん達も大変だからあんたは外で頑張りなさい!」と、「まぁそうだよねー」と私と子供達と3人暮らしが始まるのでした。

養育費?お金が無いから払えない!
でも子供達は連れて行ってくれると助かる!
そんな旦那の金なんかいるかー!と

それよりも親子3人の新しい自由な生活が楽しみでした♪

まだまだ波は寄せては返す笑

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