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世界が退屈で仕方ない女の子たちへ #一部抜粋

 十七歳の時、彼女は初めて膜をみた。本当にこれが存在するのか、果たして彼女自身が発している境界なのか、エリには見当もつかなかった。愚かな彼女はそれを自分だけが受け取ったサインだと考えていた、そして膜に触れた後、自分の手を嗅いでみた、薬局の戸棚の奥で消毒液がひと瓶まるごと零れ出したように柔いツンとした匂い……その時、膜はまだ彼女だけを覆い、太陽も月も世界も勿論外に放り出されて、もろもろとした、濡れて乾いた後のティッシュのような感触の膜に走っている歪みは、母親やエリの腕に浮き上がって走る、ミミズのような血管に似ていた。彼女は考えたものだった、膜を完全にぶち破れるのは果たして何なんだろうと。すぐ目の前の道路を走り去っていく車、例えばあの赤い軽自動車、その後ろのシルバーのでもいい、が今、人間と衝突事故を起こしたら。その音はこの膜の中、響いてくるのだろうか? と。とてもここは張り詰めた空間だから、そんなただ大きさを主張する音など決して私には聞こえないだろう、盛大で惨めなことだけを主張する、道路に残る被害者の人間の迸る血痕、割れたナンバープレート、四角いプロセスチーズが包んである銀紙をぐしゃっと握りつぶしたみたいになっている車の表面になんて決して動じたりしない。この膜を千切っていく異物は何か……外でまざまざと動いて、残像を残しながら過ぎ去ろうとする、自分の目を誘惑してくる景色に頼らず目蓋をきつく閉じて、初めて幻覚を見た後、彼女は自分の頭だけで考えてみたのだった。確かにある心臓の鼓動、今――快楽がない、今、股も開かない。気の遠くなるような仮の永遠の中、これはそんな退屈な日常を生き続けられるかのゲームだ、この膜を破れるもの、それはアルコール、その他の快楽を呼び寄せる興奮物質、セックス? ……しかし今は違う。

「エリ!」キィィィという何かが引き裂かれるようなタイヤの擦れる音。真っ赤なポルシェ。

 ぷつんと微かな音がして膜が大きく空に開き、そして粘液のようにだらだら真っすぐに縮れ堕ちて彼女の頭上を濡らした。彼女は本当は自分の境界線を踏み荒らされて行くこと、それを期待している。しかし彼女は自分の本心に気付かない……愚鈍な彼女の頭の中に濁流のような街の人々の精神や現実と呼ばれるものがミックスされて、悲痛な軋みに乗って流れ込んでくる。そう彼女には思われる。彼女はこのような強い妄想を持って暮らす。例えば、野次馬の中、シャンパンピンクの日傘を持って携帯のゲーム画面を忙しく人差し指を捩らせて操作している女、そう、この女……それが断片となって……女の職場、捻れに捻れたややこしい家族構成、そしてマンションの間取りのこと、掃除されずに埃の溜まった窓枠のアルミサッシ、エスニック料理を経営している姉夫婦、朝、女がリビングの机に置きっ放しにして少し酸化した牛乳、散歩ルートに組み込まれた植物園、緑のお気に入りの入浴剤、枕の隣りにある家鴨の小さなランプの灯り、精神を抉り、自己など探求してこなかった女の表面だけの二十六年間の人生のうちで一番情欲に燃えた不倫、その二ヶ月半の蕩けるような温度の追憶、大学時代のサークル活動、めくらの祖母の家の戸棚に隠しこんである大量の煎餅たち、病には程遠く取るにたりない女の就寝儀礼、ラクロスのラケット……もっとある、エリの妄想に限界はない。そして今、この女だけではなく、町中の人間のそれらが混ぜ合わさり、一気に彼女の脳の中に尖ったまま押し入ってくる。そして男の死。死。肩を押し出して、それらは痛がる彼女を痛めつける。彼女は自分の主権を守るかの如く頭を抱えながら顔を振る。喉から嗚咽を漏らしながら花壇におえおえと嘔吐く。彼女は心から侵犯されたがっている。

「エリ!」マリエは腹の底から悲痛な声でがなる。

「来てちょうだい! お願いしますエリさん」奇妙な優しさの圧力で、マリエは窓から身を乗り出してエリにせがんだ。

 群衆はどよめき始める。誰だ? あの女は? どよめきの波は伝わり、自身の過激な行いのせいでいつも悪目立ちしてきたマリエに疑念が向けられ始めていた。男の死とマリエが強固な糸で結束したものが群衆に提示されてしまうのは仕方のないことだった。茶色い地の、何個もクリスタルが埋め込まれたサングラスの中からマリエはエリに、誰もが背中を向けることができない切実な眼差しを向けていた。エリは頭を抱えながら憎々しげにマリエを見つめた。今彼女にとって世界の全てが敵だった。

「何よ……随分と都合いいわね」低い、棘のある声でエリは言った。

「来てちょうだい、お願いよ!……急いでんのよ!」泣きそうになりながら叫ぶマリエはどこまでも阿呆だった。そんなことを言えば群衆はますます疑念を向ける。

 群衆はポルシェと花壇にいる二人の女が繰り広げる、彼らにとっては突発的な滑稽極まりない演劇を息を飲んで見つめた、ほとんどはだらしのない半笑いを浮かべた冷やかした顔で、また携帯で録画しながらそこそこ続きが気になるといった顔で、自分の意図とは外れて、どうしても世界から浮いてしまう他なかった異常な雰囲気のいたたまれない二人の行く末を見ているのだった。警察に電話した中年女性は抜かりなくマリエの、元は男の車のナンバーを撮っていた。それを見たマリエは焦りきり、もう車から出てしまって、花壇までがしゃがしゃと大股でやってきて、エリの手をこれ以上ないほど強く引き掴んで車へと嫌がって騒ぐエリを引っ張って行く。群衆はマリエの黒いタンクトップから漏れだす乳房を見て、指差し、下卑た笑みを浮かべる、目を逸らす。野次を飛ばす。全く動じない。どこからか口笛が鳴る。目を泳がせる。乱雑な拍手が飛び交う。息を殺す。ついていこうとする。

 エリを物みたいにぞんざいに放り込んで、車は全てを捨ててタイヤを軋ませながら滑り出していった……髪を振り乱し額に何粒も汗を浮かべたマリエは煙草をくわえながら舌打ちを繰り返し、アクセルを無我夢中で踏み込む。唸るエンジン……住宅街。色を黄に、赤に、変え始めた並木道――もうすぐそこに秋がやってきていた……エリはシートに奥底まで染み込み、手をがっしりと繋ぎ新たなエネルギー溢れる主体、生命体となって全力で乗客を不快にさせにかかる煙草の匂いたちに、冗談抜きで吐きそうになって咽せながらも隣りの女をいちいち警戒するのを忘れない。

「悪かったわね」窓から右腕をだらんと下げ、灰を落としながらマリエは言った。エリはもうできるだけ息を吸わないようにして沈黙を守るしかなかった。

「アンタを自由にしとくとこっちにも迷惑がかかんのよ。ところで手空いてるならサングラス外してくれない」マリエは早口で言った。

「……どういうこと? ちゃんと一から説明してくれない? 頼むわ」頭痛が始まった。

「また後で。もうとにかくいっぱいいっぱいなのよ。……今に爆発するわ。責めないで。ねえ、サングラス外してくれない」

 エリは母親のこと、冬子さんのこと、無断欠勤のことを考える!――彼女は安全を全く考慮していない激しさ極まるジェットコースターに揺られているように胸糞を悪くさせ毒々しい怒りを存分に込め乱暴にサングラスを引っ張った。

「痛い! 髪に引っかかったじゃない、殺すわよ……わたしはもう二人も殺してんのよ!」マリエは全身を痙攣させながら絶叫した。

 びくっと身体を強ばらせながらもエリは急に大声で騒ぎだした女の口を急いで塞がなければならなかった、「いきなり何よ! 酒臭い……巻き込まないでよ!」もう自分も絶叫しながら言いながらも頭の隅でエリはこの女に微かに母親に似たものを感じ取っていたわけだった……「静かにしなさい!」何故か全くの他人なのに放ってはおけなかった、「堪えなさい!」殺人犯かもしれない、迷惑極まりない女なのに、自分も捕まるかもしれないのに、帰らねばならないのに! 何故か胸が疼いて、同情せざるを得なかった、自分でも阿呆だと思った……女はエリに口を塞がれ小さな嗚咽を漏らしながら彼女の指の縁に熱い涙をぼろぼろと零して天井を仰ぐ、目を固く閉じ何かから逃れるように右の掌を力いっぱい窓に押しつけ、頭でシートに圧力をかけ後ろに身体を突っぱねて恐怖に怯える……赤信号。ブレーキ。

 マリエはこの女と母親の携帯のメロディが同一であることなんかもう今は忘れてしまっていた……既に心は蝕まれて身体の問題に発展していた。筋肉は強ばり、頭はふらふらとし、身体全体が強く火照っていた。

「酒を飲むと自分の秘密が全部飛び出ていくのよ……質問されるのはいつもこっちだけ、こっちだけ気持ち良くなっちゃって、どんどん自分の秘密を提供しても帰ってはこないの、わたしだけすっからかん」

「……なんの話してるの?」

「わたしから秘密をとったら何も残らないわ。元からなんもないのよ、わたしには」

「……どういうこと? まともに聞く話じゃないわね、酔っ払いの話なんか」

「だから秘密を作り出していかなきゃ生きていけない」

 あと一歩先に行けばマリエの心は目まぐるしく次々と分裂し、無機質な断片となってこの街に漂っていき――車の窓のつるりとした表面へ、煙草の匂いが染みついた小汚い黒いシートへ、前の横断歩道を快活に友人と笑いながら渡っていく、黄色の帽子をちょこんと乗っけた可愛らしい小さな女の子の頬のほくろへ、同じく黄色の旗を頼りなく振っている、化粧っ気のない、青白い顔のおそらく小学校の女教師の肉のない二の腕へ、前の車のナンバープレートへと――そして二度と回収不可能だった……宇宙の藻屑となるだけ。だから今彼女は誰かに従属し、所有してもらわねばならなかった。溶け合って一つになる統合!

 自分を飲み込んでいくおぞましさの地獄に耐えきれずに彼女は自分の口を塞いでいる細い指をどけ、助手席の女の唇に自分のをぶち当てた。そして溢れ出す唾液を注ぎ込み、舌を探し当て、暴れる女の子宮を拳で殴り、大人しくさせ、激しく接吻をした。顔に噛み付かん勢いで。

 助けてくれ、助けてくれ。それでももう子宮には戻れない、胎児にはなれない。エリの腹を殴り続けながらどうしようもない接吻を繰り返す、エリはそれでも足りない頭で理解したのだった、この女のことを、灰色の悲哀のことを。唇に電流が走った時。こんな突飛な行動を取る女に根拠なく暴力的に扱われながらも。どこかで身体がどうしようもなく喜んでいた。エリの心はそれまでずっと渇いていた。そこに温かい苦い唾液が注ぎ込まれた時のことを彼女はあまりの鈍痛に涙を浮かべながらもこれから一生忘れないだろう、そして間接的に自分の母親のことも理解した、エリよりもずっとずっと渇いていた彼女のことを。マリエもまたエリの片隅で抑圧されていた密度の濃い悲哀を理解したのだった。その時ずぶずぶと二人はお互いの深層へと入り込んで行って、細胞を共有した。概念の全く違う二人はこの瞬間共生していくことをどこかで誓ったのだった。互いのために食物を喰らい、排泄し、笑い、寝、遊ぶことを。この生きにくさを分かち合うことを。頭のなかに互いを住まわすことを。何の目的もない生を共になし崩すことを。秘密の覚悟。感傷から始まった何か。……青信号になり全てを引き裂くようなクラクションが後ろの車から発せられる……


©Yuki Nakai

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