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自画像のための習作 #En route vol.2

                                   

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 私の小さな家は海辺にある。燃えたぎる橙、日の落ちる寸前の港町をひたすら奥へと入っていく。太陽光が散らばった海の近くで、漁師が縄を引いているのがうっすらと見える。車で走っているうち、それまでの雷雨が嘘のように晴れたので窓は全開にしてある。廃屋を改造した、生ぬるい潮の香りのするコテージがびゅんびゅん後ろへ流れていく。そうだ。ここは人が永住する土地ではない。
「週刊誌に書いてあることはほんとうだったんですね」
「どういうこと、週刊誌って」
「今日みたいにお金をトイレに流して、どうしようもなくなったり、いわゆる……奇行癖というか、」
「すこし変わった衝動があるだけよ」私はいった。
「週刊誌もずいぶん暇なのね」
 私は助手席にもたれかかりながら、水筒に並々注いであるウイスキーをなめた。舌が辛味に震える。
「あなたには本当に申し訳ないけれども」
「いえ、本当に構わないんです。わたしも会社から出る口実を見つけたかったものですから」
 その言葉には嘘は含まれていないようだった。車内にはいかにも通ぶった、五十年代の「小粋な」ジャズが流れ、彼女は時々わかったふうに短い鼻歌を歌った。


She wore blue velvet
Bluer than velvet was the night
Softer than satin was the light
From the stars

彼女は青いベルベットを身に付けていた
夜はベルベットよりも青く
星からの光はサテンよりもやわらかく

She wore blue velvet
Bluer than velvet were her eyes
Warmer than May her tender sighs
Love was ours

彼女は青いベルベットを身に付けていた
彼女の眼はベルベットよりも青く
彼女のやさしいため息は五月よりも暖かく
愛はぼくらのもの


「あっ」
 彼女は急ブレーキを踏んだ。キィィキとタイヤの軋む音がして私は前につんのめった。猫でもいたのか、いや、町に一軒しかない、まともな夕食が取れるイタリアンの店から、馬鹿みたいな水玉のフリルをつけたドレスを着た女や、この町の閑散とした雰囲気に似合わない、タキシードを着た男たちの団体がいきなりわっと溢れ出してきたのだった。彼らは皆、酔っているのか頰を桃色に染めて、見たこともない美しい神話上の動物が突如目の前に現れたとでもいうようにはしゃいでいた。すると花嫁と新郎が奥からゆっくりと現れ、彼らは私たちの車にまるで気づかない様子でクラッカーを引いた。
 次の瞬間、フロントガラスが色紙だらけになった、きつい潮風に揺られて飛んできたのだ。
 少し暗くなった車内で、彼女は目を少し見開きながらぼそりと呟いた。
「金曜日ですからね。騒げますから、今日は」
 別に金曜日だからって、昔じゃないんだからと返そうと彼女を見る。だが散らばった色紙の狭間から彼らを見つめる横顔は先ほどとは打って変わって何故か厳しい翳りがあり、私は直感的に、これは触れてはならないことなのだ、と思った。
 長身の男が助手席の窓を覗いて、すみません、と頭を下げた。そして数人が車に振りかぶった大量の色紙を払いのけていった。男たちの笑顔が細い色紙の隙間からまた見えていくのと同時に彼女は思いきりアクセルを踏んだ。彼らは驚いて、道路の両脇にばらけていく、何も言わなかったが、私は横目でその様子を見ながら、彼女はもしかしたら彼らを轢き殺したいのかと思った。




 町の先端に微かに見える岬を目指して走っていくと、嘘のように人気がなくなってゆく。まるで化け物の住処だ。人に見放された寂しい土地だ。建物は消え、漁師たちの活気も幻のように霞んでいく。そして急に緑が増えだし、左手に、より一層きつい潮の香りを伴った岩の深く抉れた断崖が露骨な姿を現す。
 家のある岬まで後もう少しというところ、道路が割れそうになるまでコンクリートが隆起している。それを右に行くと、惚けた老人が四六時中虚ろな目で座っている煙草屋がある。いつも私はそこで、何カートンかの煙草を買うのだった。そしてそこの脇にある、雑草が生い茂る自分の小さな薄暗い庭に続く石段を上がっていくと、湿度の高いぬめった土を踏みしめることになる。溜め込まれた生命が靴底の圧力によってぷつぷつと発酵していく豊かな匂いがする。しかし庭は荒れ放題で、哀しく折れた枝が散らばり、ナイフのように鋭利な石があちこちで尖っている。すべての要素が人間の侵入をいちいち拒むかのようだ。所有者である、私ですらも。
 度を超えた自然の神聖さを見せつけられて、場違いで低俗な私の気分は下降していく。精神は溶け合わない。そこには自然からの断絶の姿勢があるばかりなのだ。だが、そんな私を救うかのように、白いペンキが剥がれて黒ずんだ家の玄関の扉が現れるのだ。……
 二時間弱をかけて、ようやく家の前まで車が辿り着いた。私たちの間にしばしの静寂が流れた。あたりはもう、黒々とした夜の闇に包まれようかという瀬戸際まで来ていた。私はこんな遠くまで送ってもらったのだから家にあげて飲み物ぐらい出すべきなのか、遅くなってしまったからすぐに帰したほうがいいのか迷っていた。
「……作家のつくえを見てもいいですか」と彼女がいった。
 私は水筒のキャップを閉め、なんにも考えていないふりをして、
「ええ」といった。
「どうぞ」
 シートベルトを外しながら、自分が途方もなく安堵しているのがわかった。ひとりにならなくてもいい。この家に誰かを入れるのは、実に数年来のことだ。
 それにしても私は計算高い。こうなることを彼女と出会ったまさにその時から考えていたのに、哀れで馬鹿なふりをして。



                                   

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 少し片付けておけばよかった。ひどく陰うつな、籠った匂いがする。玄関口にはひっくり返ったピンヒールがぐしゃぐしゃに積み上げられているので、
「適当に靴を脱いでください」と私はいう。
 それをようやく越えて電球の替えられていない廊下に行くことができたとしても、バーボンの空瓶がそこらじゅうに転がっているので、私はそれらを蹴り飛ばし、とりあえずの通路を作ることにする。
 瓶がリビングへ続く扉へカランゴロと転がっていく。私たちは笑いあう。すると煙草臭い埃がぶわりと舞い上がり、彼女は大きなくしゃみをする。
「先生、わたしが掃除しましょうか?」
「まさか。お気持ちだけで」
「それぐらいはしたいんですよ」
「それでは、食事を作ってほしいわ」
 私はリビングの床にウイスキーの入った水筒を置く。もう、ほとんど飲み干してしまった。真正面と左右にある大きな窓は、不用心にも開け放されたままだ。このようにどこかの場所から帰ってきてみるとまるで他人の家のようだ。岩を打ちつける激しい夜の波の音、そして、目が痛くなるほどの厳しい闇が空いた窓から容赦なく入り込み私を串刺しにする。窓の傍に避けられた透けた青のカーテンは風を含み、膨れ上がり、また緩やかに萎んでいく。全ては動きに満ちている。




 あまり使われたことのないキッチンで、彼女は実に器用に料理をした。食材は毎日届くが、そのほとんどは使われず、きたないゴミを捨てるかのように乱雑に冷蔵庫に放り込まれる。私は冷凍庫と野菜室などを区別しない。私は食事の時間になると、その冷蔵庫に手を差し入れ、辛うじてしなびていない野菜を取り出して塩をふり、齧りつく。彼女はそのゴミ箱から器用に品物を取り出して、調理をしてゆくのだ。まるで手品のようだ。一時間もしないうちに、生ハムと野菜をあえたサラダや、熱されてしぼんだミニトマトが散らばるアクア・パッツァ、それからボローニャ・パスタがテーブルに並べられ、分厚い埃の被ったキャンドルに明かりが灯された。
 グラスはぴかぴかに光を反射するほど彼女によって磨き上げられた。興味本位で買ったワインセラーに突っ込まれていたワインのコルクが抜かれた。断崖絶壁の間近、深い緑に覆われた丘の上に崩れ落ちそうになって建てられたあばら家での奇妙な晩餐会。
「わたしをけっして追い返さないでください」
「なにをいうの?」
「夫から虐待を受けています」
「嘘はやめなさいね」
「帰ったら殺されるかもしれません」
「それで、どうしたいというの?」
「先生はほんとうは何もかもごぞんじなのでしょう」
 彼女は夢見心地で、惚けたような顔をした。私はそれを見て、自分の本当の目的の浅ましさが浮き彫りになってくるように思って、ゆるく頭を振って、ハ、ハ、ハ……と笑った。自分が浅ましすぎる。
「あなたのことなんて何も知らないし、興味もないわ」
 何かが崩壊してしまいそうな気もした、いつも、朗らかな楽しさは、ひとつ残らず、散り散りになってゆく。それはわかっている、だから、グラスに残ったワインを一気に飲んだ。




二〇一四年八月二十六日 朝陽新聞夕刊  一面

                               
芥川賞作家・冴木実和子(四十三才)が、昨夜神奈川県葉山町の自宅付近にある崖から飛び降り自殺を図った。葉山町の漁師らと、冴木氏の担当編集者である光出版の倉木陸(二十七才)によって夜通し懸命な捜索が行われた。発見当初、冴木氏は意識不明の重体であったが、病院に搬送後、意識を取り戻した。しかし、冴木氏の両足は、岩に打ちつけられたためか、骨が砕け、筋肉が裂けるなどのひどい損傷を被った。両足の細胞は壊死しており、迅速に両足切断の緊急手術が行われた。今後は介護を受けながら執筆活動を行う冴木氏。冴木氏には元夫と暮らしている長男・隼人君(十六才)がいるが、記者からのインタビューに対し「僕が産まれてからすぐ父と離婚しているので、母だという実感がありません。可哀想な人だとは思いますが、つきあいも皆無ですし、他人といっても過言ではないので介護に関して僕と父が関わることはない」とコメントした。二〇一二年に発表した『マリーナの体験』で紫綬褒賞を受賞した冴木氏。現代文学の旗手としての活躍がますます期待される彼女だが、私生活は波乱万丈なものである。なお、冴木氏は光出版発行の婦人向け生活雑誌『Lifestyle』に小説を連載予定で、昨夜はその打ち合わせが行われていたという。冴木氏の心身が快方に向かうことを願うばかりである。




「なぜ、わたしがあなたを追い返すと思ったの?」
「夫に電話してきます」
 消毒液の匂いが充満した病室。








©Makino Kuzuha

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