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#あの時あの選択を

私にはあまり多くの親しい友人はいない。しかし人間関係広げ過ぎたら器の小さな拘りの強いメンタルがとてももたないとかなり小さな時に決めつけてからというもの、自分から他人に声をかけて友人になることはなかったような気がする。

そんな中幼稚園の時は通園バスに一緒に乗る子。小学生低学年の時は学校へ行く途中いつも一緒になったり帰り道が一緒の子。高学年の時にグループでつるんでいた子、みたいにそれなりには数人の顔が朧げに浮かぶ。高学年のグループは5人だったが、その中でも住まいが一番近くてみんなにバイバイと言って別れたあとも公園でおしゃべりした子がいた。彼女はピアノを弾ける子で何かの式で校歌を歌う時はいつも伴奏だった。体が弱くて休みがちでもあった。でも面白くて物知りだった。私はというと、海外赴任がその頃から増えてきた父が家でずっと洋楽を聴いているせいか、またはその頃珍しかったエレクトーンを習っていたせいか、さらには年の離れた兄がいたせいか、そしてその兄がボーイスカウトで海外の話題を絶え間なく家に持ち込むせいか、周囲のこどもたちと徹底的に話が合わなかった。そんな変な自分に、というよりはエレクトーンの曲にたぶん彼女は興味を持ってくれたような気がする。私は誰にもその曲知ってるーなんて言われたこともないバートバカラックとかニーノロータとかジリオラチンクエッティの雨とかを練習していた。弾くのは楽しいけど単にゲームのように一面クリア次のステージ、はい次、はい次、みたいな感じだった。新曲は譜読みから始まるから曲のオリジナルを知らないまま初見でイメージを掴み、譜面の指示に従って練習をするのだ。余談ながらこれを一切しない最近のやり方に息子たちがピアノを習っていた時はツンのめるくらい驚いた。

そうこうするうちステージ101というTV番組が始まった。その当時としては珍しくこの番組にはいろいろなバックグラウンドを持つ若い男女がたくさん集められていて、皆踊って歌うのだった。そこにはやはりさまざまなジャンルの洋楽が溢れていた。知っている曲がたくさんあって楽しかった。あーこれはオリジナルには歌詞があったんだ。英語で歌うのもいいな、などと一人で気付いたり感心したり。その番組はたぶんクラスメイトの中で自分だけがみていると思って居たが、例のピアノの上手い子も知っていたのだ。そのことを知るに至る経緯は覚えてはいないが、ともかくいろいろな曲を聴いて、観て、このコード進行がいいな、とか言って楽しんでいた。交換日記などしてかなり親しく関わっていた。

しかし運命は残酷でこの彼女は隣県に引っ越して行ってしまった。昔のことで手紙を数回書いたかもしれないがちょっと行ってくる距離感ではなく、部活やら受験やらそのほかいろいろなことでだんだん疎遠になり、もう2度と会わないかも?となんとなく思っていた。彼女の名は国府弘子。後にジャズピアニストにおなりである。


いっぺん時を戻す。その彼女を次に思い出したのは在米中。母からの知らせで弘子ちゃんもアメリカにいるらしいよ?連絡とってみたら?と。アメリカって言ったってちったあー広いよ、ちょっと行ってこいって言うけど住所もわからないのに、道端で会うわけないじゃん。とか若い自分のことで精一杯な私は聞き流したと思う。母はそう言えばその時もう少し詳しいことも知っていたような気もする。

さらに時は流れ、50歳を目前にTVから聞いたことのある声が流れてきた。昼間の時間帯、いつもなら絶対TVをつけたりしないときに、なぜその声を聞いたのかわからない。その声の主は国府弘子だった。声の記憶ってすごいなーなんて、その少しカレンカーペンター的な低めの声を懐かしく聞いたあと、ほんとにきまぐれにがんばってるね、とかなんとかファックスを送ってみた.名前は書かずに昔のあだ名を書いておいた。彼女のこともあだ名で呼んだ。そうすれば私が誰か覚えていたら分かるだろうし、めんどくさいなと思ってほっておくことも簡単だと思ったのだ。そう.彼女は私とは違う。わりと真面目でわりとクヨクヨする。わりと不器用で抱え込む。だから不用な責任みたいなことは背負ってはいけないタイプなのだ。(だけど自分から突っ込んで行くんだけど)

数日後、家の電話にまたあの低い聞いたことのある声で電話があった。国府弘子だった。そこから現在の住まいが30分圏内の近さだと分かり、奇遇だね。とか言いあってまた旧交温め合っておる。人生後半にさしかかる時期に子どもの時の興奮を分かち合った人物と再会できたのはまさに嬉しい驚きであった。あの時TVをつけなければ…あの時ファックスを送っていなければ。人生にはこちらからのはたらきかけも必要。当たり前か。

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