母性と母と。<後編>「結晶」を観て④

育(そだ)てると育(はぐ)くむ

劇団5454のInstagramで見た「私は一緒に暮らしてるだけ」という橘禾のキャッチコピーは、わたしと被る。「子育て」という言葉はあまりにも上からすぎて、対息子に使ったことはない。全盛期、テレビや雑誌の取材で「仕事と子育て、両立の秘訣は?」と聞かれるたび「育てては・・・いないと思います。一緒に暮らしているだけで」と答えてきた。わたしの息子への日々は、同じ漢字でも育(はぐ)くむ、であり、育てるだなんて滅相もないことだ。本当にただ、一緒に暮らしてきただけ。ゆえに橘禾への共感は大きい。

<子供を造った柑奈と「お母さんじゃない」橘禾>
我が子の発育に興味がなくても柑奈は母。父親・吏桜の言葉によれば、柑奈が子供に会うのは15歳くらい。それでも母。一方橘禾は、保育ラボで他人の子をたくさん育んでいるが、誰の母でもない。「結晶」では明らかに母性は橘禾にあり、柑奈にはない。
ラボを滅茶苦茶にした後の苺佳を橘禾は叱らなかった。肩を抱き、お腹は空いていないか、と聞く。苺佳は首を横に振り、去る。橘禾は追わない。同じシーンでのくるみは泣きながら右往左往。苺佳・橘禾・保育ラボの子供達、が頭の中をぐるぐると回っていたのだろう。橘禾はそんなくるみの背中をさすり、旅立ちを促す。二人が行ってしまった後、橘禾の肩を抱く人はいない。背中をさする人はいない。育んだ者たちを旅立たせるのが仕事だから。自分はお母さんじゃない、といつだって自分に言い聞かせて生きているから。独り、泣く。見るたび泣いた。一緒に泣いた。(独りじゃないよ)と心で語りかけながら。

<ラストシーン>へ続く。のだけれど、明後日前川知大氏の舞台を観るため一旦終了。♡をくださった皆様に心から感謝です。人知れず続けていこうと思いますので、今後ともよろしくお願いします。


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