作る・造る・創る。「結晶」を観て①

※ネタバレなので千秋楽までまだ観ていない人の目には触れませんように。
A-men
初日と三日目(12日13時)を観劇。
初日はあっという間の120分(誰もがそう言うだろう)。暗転を無駄使いしない春陽演出はいつもながら私好み。さて、知ったかぶりをして断定調に綴る感想なので、作家からも役者さんからも、いやいや全く違うから、と笑われる覚悟にて。

<おにぎりと栗之介>
初日カウントダウン中のSNSで見たお米2合(おにぎりデザイン)のネタ元(愚鈍な言葉だ。が分かり易さ重視)を知る。そしてその意味を洞察。おにぎりと子ども。これは対比?己に問う。人が愛で作れる最もシンプルなものとして「おにぎり」。人が愛で創れる最も崇高なものとして子ども。作ると創るを使わず「培われる」という言葉を使う方が良いのかもしれない。米には田んぼ、子どもには母体。たんぼ→ぼたい、というしりとりも成立(!)。母体児である栗原栗之介は幼少から母のおむすびを好物としており、母の味を再現したいという想い=母への思慕と尊敬、を抱いている。クライマックスで彼は橘禾に言う。自分は母ではないと言い続けた橘禾への言葉は「橘禾さんのおむすびは美味い!橘禾さんが愛、愛が橘禾さん」=あなたはお母さん、と。
※培われる=ある環境・風土・文化などが長い時間をかけて物事を育てるさま。 特定の条件のもとである要素を顕著にするさま。

<ダンボールとくるみ、そして苺佳>
大きな段ボールには保育ラボで暮らす子どもたちの何かが入っている。その大きさこそが彼女が今抱えるものの大きさだろう。自分が育ったところ、自分の家、母として慕う橘禾の苦労や重荷を彼女はか細い腕で支えたいと頑張っている。か細い腕は腕立て伏せもダンベルカールもできない。それでも親友・苺佳(ほぼ姉妹)に私を頼ってよ、と訴える。二回目の鑑賞時、私は彼女が登場した時点で泣いた。なぜなら、初日の鑑賞で彼女は天使だと知っていたから。ダンボールを抱えたまま、またね!と振られる彼女の腕。あれは羽根の羽ばたき。か弱く小さく、思うように飛ぶこともままならない天使。
一方、苺佳は神であった。元来子どもを持ちたくても持てない人たちのための人工子宮。強欲な人間のためにハイスペックな子どもを造るなど、倫理を蔑(ないがし)ろにしている。顧客のリクエストに対し、偉そうながらも完璧な仕事をする杏平はわかりやすく横柄で(そしておそらくすごく金持ちで)春陽作品だとうっかり「ああ見えていい人よきっと」と好きでいようとしてしまうがせずに済んだ。杏平にとって赤ん坊造りはビジネスであり、苺佳はサンプル。神は大抵最初は寛大で次第に怖いものとなるがゆえ、彼のベイビーラボは神の怒りを買って雷(いかづち)に打たれる。怒り狂う神(苺佳)の傍で泣きじゃくる天使(くるみ)。セットの灯が消えていく様はヨハネの黙示録さながらに恐ろしい。人を守護する使命も神あってこその天使。しかし、その間(はざま)で彼女は泣くことしかできなかった。涙で萎(しお)れた羽根を優しく摩(さす)る橘禾(神の子)。「わたしを心配してくれているの?」。使い物にならない羽根の代わりは橘禾のショールだった。飛び立つくるみ。神のもとへ。最後まで守護という使命のために働いたくるみの楽園は苺佳と一つになれた拾った毛布の中にあった。よかったね、と私はじゃんじゃん泣く。可愛くて素晴らしくて、羽根が大きくなったらまた橘禾さんに会いに行くよね。またね、絶対またね。
※天使=天界にあり、神の使者として人間に神意を伝えたり、人間を守護したりすると信じられるもの。

(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?