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No title sec.1 歪みのきっかけ

この記事をのぞいてくださってありがとうございます。まとまりのない欠片たちですが、少しずつ形にしていきたいと思います。これから連なる言葉たちが、誰かにほんの少しの動力を添えられることを願って。

今が生きてて一番幸せ。彼の腕の中でそう思う。寝返りを打とうとしても、後頭部に回された手にぎゅっと力が入り体勢を変えられない。愛おしい気持ちが溢れてベッドの上に、そして部屋中に充満するのを感じながら、去年のクリスマスに揃えたジェラピケのパジャマに顔をうずめた。

今日は彼と一緒に勉強をする日。去年あたりから未曾有のウイルスが爆発的に流行し外出自粛を余儀なくされていたため、デートの日には大抵彼の家に引きこもり、海外の大学が提供している無料のオンライン授業を一緒に受講していた。
彼のMacの画面を一緒に覗き込みながら、聞き取れなかった単語があれば動画を一時停止して一緒に意味を確認する。お互いの肩や腕、手が自然と触れたり離れたりすることに居心地の良さを感じながら、初めて彼の家に来た日、二人同時にマウスパッドに手を伸ばし、一瞬緊張が走ったのを思い出す。

そういえば、その年のクリスマスはひどかった。彼は当日仕事が休みで、私の仕事が終わってからホテルでディナーでもしようかと話していた。私は十二月に入ってから毎日楽しみな気持ちを募らせた。通勤電車の中で見るコスメの広告や徐々にイルミネーションに彩られていく街並み、インスタのストーリーをスワイプすると出てくる日用品の広告までもがクリスマスめいていた。私も浮き足だった街に便乗するようにして週末を彼に贈りたいものを探しに街に出て、ジンジャーブレッドティーを飲みながら関東地方のクリスマスディナーを調べていた。

クリスマス当日の昼頃、彼からLINEが入った。
「マイほんとごめん、」「今日先輩がコロナで出勤できなくなって、午後の商談から夜の会食まで俺が代理出席することになったから、一緒にいられなくなった…」「ほんとにごめん、また寝る前電話しよう」
クリスマス当日に商談と会食を入れる非リア充な社会人なんて本当に存在するのだろうか。当てつけだとしか思えなかった。欧米諸国出身の同僚がたくさんいる私にとっては到底考えられない予定の組み方に腹を立てる。私の同僚たちはみんなクリスマスが近づくとそれぞれ母国に帰ったり、家族が日本に来るからと長い休暇をとったりするのだ。何より、誰より身近なはずの彼の言葉をすぐには真実として受け入れられないことにも腹が立っていた。
彼にはやけに衝突を避ける癖があって、いつも思ったことがあってもそれとなく婉曲的な言い方を選んで問題の核に言及しない。何か感じていることがその表情から読み取れても、それを言葉にすることが面倒なのかわざと避けているのか、自分の中で言葉にはできているけど私には伝えられないのかはたまた伝えることをあえて選んでいないのか、理由はわからないが、腹を割って話すからこそ人と人は理解を深めていくと考える私とは相反する部分がある。

彼が私との予定を断ったのは、本当に商談が理由だったのだろうか。本当に会食まで出席しなければならないのだろうか。寂しさと恋しさを燃料に、黒く尖った思いが暴走した。先輩が病気になったという部分が仮に本当だったとして、前に話していたお世話になっている男性社員のことなのか、最近入ってきたらしい女性の新入社員のことなのか、と彼がしていた職場の話に頭を巡らしながら、少し寒くなってきた頃に彼の家の洗面台で見つけた焼肉定食二人前のレシートのことを思い出した。私の知らないところで誰と肉を焼いたんだろう。あの笑顔を、あの気遣いを、あの茶色い瞳を優しい声を私じゃない誰に向けていたんだろう。

自分がほとんど初めて恋情というものを意識し、湯舟に浸かり流行りのラブソングを聞きながらある男性を思い浮かべたのと同じように、彼にもそんな切なくたぎる欲望を感じさせる存在が私の他にもいるのかもしれないと思うだけで頭と心のあたりにある臓器の粘膜という粘膜をズタズタに切り裂かれたような気分になる。

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