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私は17歳の時、一型糖尿病と診断された(1/2)

最初に症状が出た日を、私ははっきりと覚えている。
高校2年生のクリスマスの日だった。その日は家族と岩盤浴に行っていて、帰宅してからも喉がかわいていた。
「いっぱい汗かいたからまだ水分足らないのかな」そう思っていた。

しかしそれから病院へ行くまでの2か月弱、どれだけ水分を補給しても、喉が潤うことはなかった。


一型糖尿病をご存知だろうか。
よく耳にする、主に生活習慣や遺伝が原因で発症する「二型糖尿病」とは違い、
血糖値を下げるインスリンというホルモンが、何らかの原因により分泌しなくなる自己免疫疾患である。
主に若年性で発症する割合がほとんどで、今の医療では完治しないため、
生涯にわたりインスリンの自己注射が欠かせない。

私は17歳の時に一型糖尿病と診断され、10年が経った。
この節目に、発症した頃の経緯をまとめようと思う。


次の日になっても、喉の渇きは続いていた。
少ししてから、喉というより口が渇いていることに気づく。そのため口の中は常に2.3個の口内炎ができていた。
学校に水筒を持っていき、着く頃には空になっていたため、学校のウォーターサーバーで補充をする。ジュースは一切飲まず、水かお茶を飲んでいた。
友人には「寒いし乾燥してるから渇くのかもね」と言われていたが、そんなもんじゃなかった。1日4~5リットルは余裕で飲んでいた。出かけている時ももちろん渇くので、コンビニで1リットルのお茶を買ってストローを差して飲んでいた。
しだいにトイレの回数が増える。夜中にトイレに起きることは今までなかったのに、少なくとも1回、多いと3回起きるようになった。尿は甘い臭いがしていた。
朝方、こむら返りも起こるようになった。無意識に伸びをするためか、足のつりの激痛で目が覚め「ごめんなさい痛い痛い堪忍してああああああ」と叫びながら痛みが引くまで耐える。

(ちなみに、一型糖尿病の初期症状の一つに「体重減少」がある。体中に糖を運ぶインスリンが分泌されず糖が垂れ流しになるためだが、私はなぜか一切体重が減らなかった。なんでじゃ)

さすがにこれは異常ではないか?
1か月経ったあたりに、出ている症状で検索してみた。
出てきた病気は「糖尿病」
その文字を見たとき「、、ありえるな」と思った。
当時(今もだが)標準体重のギリギリではあったが、太り気味という自覚はあった。
私、糖尿病になっちゃったの?太ってるから?いやいやさすがにこの年齢で、一応は標準体重だし、、、でも症状は全く同じだ、、、

いや、、、、、、

病院に行きたかったが、当時は毎日必死に部活動をしており、演劇部でその時は主役だったため、私が参加しないとみんなに迷惑がかかってしまうと思い、休むことができなかった。


やっと病院に行けたのは、テスト1週間前の部活がない時期。
2月18日だった。

見慣れたかかりつけの病院へ母と向かう。インフルエンザや花粉以外で行くのは初めてだった。
先生は小さいころから見てもらっている、厳しめのおじいちゃん先生だ。
症状を話すと血液検査をされた。

診察室の外でしばらく待つ。看護師さんがバタバタしていて、途切れ途切れに会話が聞こえてきた。「…異常に……」「…900超えて……」
嫌な予感がした。


診察室に呼ばれた。事前に調べた情報と、私の嫌な予感は同じだった。

「通常85~110の血糖値が956あるね。若いし、一型糖尿病で間違いないと思う。大学病院を紹介するから明日行きなさい」


頭が真っ白になった。隣にいた母がどんな言葉を言っていたか全く覚えていない。
ただ覚えていることは、私はその場で泣き、ふだん厳しい先生が「一型糖尿病で活躍しているスポーツ選手だっているんだよ、大丈夫だよ」と慰めてくれたこと、
そのあと帰って夕飯を食べたが、
この日は父が夜勤の日で家におらず、いつも父が寝る前に母に電話をかけているのだが、母は私のことはなにも言わなかったこと、
次の日の朝、大学病院へ行く前に母との会話で「りいとが糖尿病かもしれないなんて、父ちゃんに言えるわけないじゃない」と泣きながら言っていたことだけだ。その時私も一緒に泣いていた。


次の日、学校を休んで母と大学病院へ向かった。
全身のあらゆる検査を半日かけて行った。この大学病院はかなり大きく有名で、県外から通院する人もいる。私の家から車で15分の距離だが、まさか自分とは無縁と思っていた場所に母といるなんて、と不思議な気分だった。

昼過ぎ、ついに診察室に呼ばれる。若くもないが頼りなさそうな医者だった。

「一型糖尿病で間違いありませんね」

泣いた。とにかく泣いた。「迷惑かけてごめんね」ひたすら謝りながら泣いた。母は泣きながら首をわずかに振っていたが言葉は出ていなかった。感情の起伏がない医者を放って2人でわんわん泣いた。
医者に「1型の人は、急に倒れて運ばれて病院に来る人も多い。自分の足で歩いてきて意識もしっかりしているなんて、信じられない」と言われた。
私はこれまで、家族の中でいちばん体が丈夫だった。今回倒れなかったのも、丈夫な身体に産んでくれた両親のおかげだと思っている。


泣いているだけでは何も進まないので、これからの説明を受ける。
私は2週間入院して治療を受けることになった。
まさか入院するとは思っていなかったため、母が買い出しや荷物を取りに行っている間、私は一人病室で、めそめそ泣きながら点滴を打っていた。
心細くて、母が来るまであまりに長時間に感じて、母に電話をかけたが、母は母で新しいパジャマや生活用品の買い出しをし、父に連絡をしてくれていた。

父・母・2つ下の妹が病院に来た。たしか面会時間を過ぎる少し前だったと思う。
医者から、どんな病気か・どのように治療していくか等の説明を受ける。終わる頃には面会時間をとっくに過ぎていた。
帰り際病室で、目を真っ赤にして泣く父と手を握り話をし、母は泣き、妹はというと予想外に泣いていた(もっとドライなタイプだと思っていた)。姉が急に入院となり驚いたのか、私の名前を呼びながら、私が行ける最後の扉まで、何度も振り返って手を伸ばして泣いていた。2つ下なのでこの時15歳だが、ずいぶん小さな子に見えた。


入院して最初のほうは、看護師さんが食事前に注射してくれたが、2日くらいたった後だったか、自己注射の指導を受けた。自分の身体に針を刺すのは怖かったが、これから先一生し続けなければいけない行為だ。
ちなみに10年経った今でも怖い。この時と比べ医療が進歩したのか、針が細いものに変わったのか、痛みを感じることがまれになった。が、やはり刺し所が悪いと激痛で、刺す前はいつもあの痛みを思い出し身構える。

入院の目的は、自分で注射し血糖値をコントロールし、日常生活をおくる指導を受けるため。母は毎日・父は夜勤の日以外面会に来てくれたが、指導を常に受けているわけではないので、暇な時間が多い。
食事も糖尿病食なので量も多くなく、私はとにかく空腹で母に訴えていた。あまりにもお腹空いたとうるさかったので、隣のベッドのおばあちゃんに「あんまりお母さんを困らせちゃいけないよ」と窘められた。
病院で出される朝昼夕の食事以外は食べてはいけなかったが、医者から「血糖値を上げない無味の寒天ならいいよ」と許可がおりた。
が、無味の寒天。全ッッ然おいしくない。そりゃそうだ無味だから。おいしくないどころか、嫌に変な風味があって食べられたものじゃなく、そのうちオリゴ糖をかけて食べだした。そこに意味はあるんか。

シャワーは1日15分だったが、私は髪が長く15分では全く足りなかったので、2日に1回30分で入っていた。
このシャワー確保が争奪戦で、決まった時間にナースステーションに受付名簿が出るのでスタンバイしておく。出遅れると30分の確保ができなかったり、変な時間しか空いてないのだ。食事の時間や親が来る時間は避けてうまくシャワーを浴びていた。

昼間に糖尿病講習があるから受けるように言われ、少しでも知識をつけたくて参加できるものは全部したが、参加者は私以外お年寄りで、内容も2型患者向けのものだった。
入院して1週間ちょっと経ってから、見たことない若い女性が参加していた。もしかして同じ1型!?と声をかけた。
私より5~6年上で、救急車で運ばれて1型と診断されたらしい。
退院まで1週間を切っていたが、初めて同年代の同じ病気の友達ができてとても嬉しかった。
この子は結婚で遠くに引っ越して、最近連絡をとっていないが、地元に帰ってきた時連絡してくれて子どもとも会えた。今でも大事な私の1型仲間だ。


(2/2へ続く)

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