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ルックバックを見たアロマンティックがものづくりを通した人との絆に浸る

「ルックバック」をレイトショーで見てきた。
映画館を出て、どうしても小さい頃のことを思い出して、夜道でいきなりエンエン泣いた。
主人公に映して、毎月せっせと学級新聞を書いていた頃の自分と、それの投稿コーナーに大量に投函してくれた男子のことを思い出した。
友達が仲介して奥手者のお互いをカップル認定してくれて、その帰りは嬉しくてスキップして帰った。

私がルックバックを見て感じたのは、私は自分が作ったものに熱で返してくれる人と、その出来事をずっと大切に覚えているということだった。見ようによっては一種の執着かもしれないが、思い出を振り返って大切にすることはいつだって「忘れたくない」という執着ありきだ。これを多分、恋と勘違いしたのだと思う。身勝手だったが、それくらい手放せない思い出だったのだ。

恋愛ができないというのは、そこまで重要なことじゃない。 「カップルを見たとき、男女のどちらに目が向きますか?」という質問はアセクアロマ判定でよくあるが、私は接客アルバイトでカップルのレジを打つとき、(この人たちはどんな出会いをして、どんな趣味で繋がって、どんな家に住んでいるんだろう)と想いを巡らせている。そして彼らの人生に対して、言いようもない暖かい気持ちになるのだ。

人と会ったときは、まず自分と同じ重さの違う人生を歩んでいるという面で、強く尊敬する。同時に、この人のことを尊重しながらより良い対話をしたい、自分と意見が似ていても違っていても、きっと良い友人になれるはずだと思う。
 良い友人とは互いが思っていることを遠慮なく話し、何かあれば助け合える関係性のことだ。これを世間では強い友情、親友と呼ぶ。私は小さい頃から初対面の人に対して、親友の可能性を信じて接している。デフォルトで友人以上恋人未満なのだ。でもなにより尊敬しているから、無理に距離を詰めようとしないし、その人の全てに執着することもない。相手が自分を嫌いな場合を除いて、その人と経験する未来に期待し思いやりを尽くす。それで満足している。

恋愛と友情の違いという「一目惚れ」も「自分のものにしたい」もあり得ない。だからアロマンティック。
 全員を愛し、人の愛に感謝して幸せに暮らしている。

恋愛の意味で相手から好きと言われると、自分には分からない相手からの好きの量を返して責任を果たそう、と気を遣って苦しくなってしまうが、相手が好きだと言ってくれたのが自分の生み出したモノの場合、それは私も好きだと思って作ったモノなので、同じ評価者の目線に立って楽しむことが出来る。人との関わりにおいて、私にとってモノを作ったりアイデアを人に話したりすることは、その対象物を通して相手と自分の本音を交わす、1番簡単かつかけがえのない方法なのだ。

賞を取ろうという場合など、人のウケを狙ってモノを作ることがあるが、それが認められても成果を確認したその日のうちに忘れる。しかし学級新聞しかり本当にこれが面白いと思って作ったモノについては、それを認めてくれたのはこの20年の人生で5人だけだが、何度も噛み締めて生きる気力にしている。人に認められるために作って褒められても嬉しくはないが、自分の本気をぶつけたものに目を輝かせてくれる人がいると、違う人生同士が深いところで共鳴した気がして本当に嬉しい。

「ルックバック」はシナリオとしてはありきたりで(だから刺さる)、音と演出は観た中でいちばん素晴らしく、私にとっては自分の創作を楽しんでくれる人への感謝の物語だった。

ちょっと不思議なやり方で人を見るから恋愛は出来ないが、作品を通してでもそうでなくても、自分と本気で話してくれる人を今まで以上に大切にして、そのためにこそ自分が面白いと思ったものをどんどん外に出していこうと思った。

ありがとうルックバック。

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