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note1周年と受賞で恥をかいた話

noteを書き始めて1周年が経った。

その間に、幾つかの長めの日記と思いついた言葉を書いたメモを保存してきた。
毎日の日記は別に書いているので、本当に長く書きたいし見てもらいたい何かがあった時だけここに溜めている。

1年前、何をしていたか。

思えば沢山の成長があった。

noteを始めたきっかけはiOSのデフォルト「メモ帳」に書いていた小説が、保存の忘れとバッテリー切れで真っ新になったことだった。心新たに記録を始めてみたり、人に自分の活動を紹介する目的でnoteを始めた人が沢山いる中で、なんと個人的かつ合理的でつまらない理由だろう。

だから、下書きの保存機能がある以外に他のアプリと比較することもなく、他ユーザーの需要に合わない(とされる)詩や誰の参考にもならない日記をつらつら書いて、あろうことかド深夜に更新していた。

反応は詩の方が評判がよく、良いと言っても「読んだよ!」のお気遣いで稼げるくらいで、自分がしっかり書いた気でいるものより力を抜いたものの方が人に見られることもあった。

自分には才能がないんだなということがしっかり分かった。

また、スキを辿って同じく何らかの「作品」を投稿している人を見つけると、彼らはどんな出来にも関わらず「毎日」や「毎週」作品を出すことを続けていた。評価にこぎ着くための努力をしていた。

私はnoteへあくまでも「作品」として自分の考えとか好きなものを載せるなかで、文章を書くことと自分の繋がり、初めて自分自身と作文を乖離して客観的に見て、「こんなものか」と思えた。

1つに、どうしても文章を書きたくて、衝動的になる。
2つ、文章が途中だと重しになって苦しくて、早く終わらせなければと思い、その出来に納得できるように色々考えてしまう。
3つ、反応の有無は気にならず、自分が納得出来るかで評価を決めている。

産みの苦しみと呼ばれるやつだが、その義務も無いのに書いても苦しい書かなくても苦しい、それにちょっと例えが尊大すぎるくらい結果が出ない。

結果を出すことを目標にすれば、自分の楽しみに背くし、出なかったら悲しくなる。期待しないことで傷つかないようにもしている。

最近短い小説で賞を取った。自慢出来るようなものじゃないと思い直して友達には教えていないが、家族には見せた。すると、「あんたのは大人が書く文章じゃないね」と言われた。誰にも教えていないから読み合わせをする機会もなく、受賞して作品集に載ったのに重要な矛盾も見つかった。少しの確認で補えるケアレスミス。

やっと受賞に思い上がってしまって筆を休める予感もあったのに、生き恥をかいた。選者の好みだと割り切っているが、自分より下で載っている他の作者に「どうしてこんな駄文が」と思われた可能性は大いにある。

アカウントは消さず、また応募して、自分が満足いくまでやる必要が出来た。他に自己表現の手段が残されていないわけじゃないし、毎回悔しい思いをしているが、抗えない魅力があるようだ。もちろん唆されてやっている訳じゃなく、湧き出る気持ちに整理をつける方法が自分の場合は作文なのだ。

「作品として見られるための文」と「自己の欲望の発散に書く文」は同じ役割を果たしてくれるが評価のあり方が違うから悩む。

でも、出来れば評価される文章を書いて、これは夢だが、本を出して、それが図書館に並んでいる状態を見て死にたい。

色々矛盾した感情が一緒に存在している。

それで、どちらにも使えていっぺんに叶えるためには、好きな文章を他人に見せられるだけの地力がいる。

大人が書く文章とはなんだろう。思うに固有名詞が多い、視野が広い。知識があって独りよがりじゃない。
それそのまま、大人が好む文章だと思う。空白の時間を作りたがらず、娯楽の中にも学びを求める(本当は娯楽も学びも出来ていない時間が大いにあるのだが、娯楽という時にだけ時間の出し惜しみをするのだ)。

小説はバカが読むだとか、小説はウソだから読まないとか、大人になってからさっぱり小説を読まなくなったとかいうのは全部「学びに使おうとしているから」で、その需要を把握して学びに寄せた作品が大人の文章。

ああ、白熱電球がある、というと白熱電球で説明が完結してつまらない、ぼんやり暖かい光と言った方が表現の幅があって面白い……。

いや、やはり知識をつけるべきなのか。実体験に則って作られる凝った世界観の小説は好きだ、作者という専門家から学べるなら両得だ。確かに書いてみたい。幼さが漏れているのは恥ずかしい。

でもやっぱり書いてしまう。「自分のために書かない作家は大ばか者だ」教養も何もあったものじゃない。それで良い。書いて書いて、いつかどうせ大人になって、出来に納得することもない。

私は今年20になる。21歳までに大成しなければクリエイターは食っていけないと思っているが、食っていかなくても良い。ただ、一生、本当に耄碌するまで出来る趣味を学んでしまったのだから、嫌にならず馬鹿にせず、自分を信じた作品を作り続けていきたい。

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