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変な家 感想

私は原作者である雨穴さんの動画は殆ど見ているが、変な家の動画は見ていない。そして、家に本があるのに読んでいない。(帰省したら読む)
そんな私が初めて映画という媒体で本作に触れたのだから、珍しい感想が書けるだろう。

思うに、映画としての「変な家」とは、ジャパニーズホラーへの問いかけであった。

それが何故かを説明するため、少しジャパニーズホラーについて西洋のそれと比較しながら、持論を展開しようと思う。

ご存知のように、西洋は絶対神をもつ。
だから西洋のホラー作品では、若者などが廃墟の十字架をぶっ壊したときなどに、神威を纏った超常現象が起こるのがセオリーだ。

日本には神=世界の全てという等式はない。元々はそうだったかもしれないが、民間信仰や外部的宗教が複合した現在、我々の持つ宗教観からキリスト教・イスラム教的な唯一神観を自ずと理解しにくいからには、それらの宗教観と我々の潜在的意識は同じでないといえる。

従って、オーメンに代表されるホラー作品は「神と人間」をはじめとした数学的、良く言えば美しく壮大な構図になる。
反対に八百万の神と共に付き合い暮らす日本のホラー作品は、まさに「変な家」で放たれる「何にも祈らない!」や、独自のムラの儀式に立ち入る構図、即ち「独自の世界とそれに属さない観察者」による、小規模かつ込み入ったものになる。

これを映画の尺に取り入れたとき、西洋ホラーは秩序、ジャパニーズホラーは混沌の相を呈する。(後に詳細)

さて、次にそもそも「ホラー」とは何かについて掘り下げよう。

先程宗教観をベースにホラーを話したが、ホラーとはなにも神的現象を扱うものだけではないという意見もあるだろう。
しかし、作品の分類である「ホラー」とは恐怖を扱うものであり、恐怖とは「理解出来なさ」そのものなのである。
そして、私たちにとっての宗教は、その世界に対する理解出来なさを解釈付けるための原初の手段であり、本能なのだ。

つまり、ホラー作品とは理解の出来ないものを登場させる行為によってこそ完成され、そこに宗教観は大きな役割を果たす。

西洋ホラーでは絶対的存在がまずあり、それが理解の出来ないもの=制御不能なものとして描かれ、神と人の構図になる。この場合の「神」は強大であればなんでもいい。
日本ホラーでは観察者がまずあり、それが「観察者」としての性格を保ったまま、理解の出来ないものに触れる。観察者にとってそれはただそこにある現象に近く、批判と分析の対象になる。

先程、日本ホラーを混沌と言ったが、上述したように「理解の出来ないものを解釈付ける」ことが日本ホラーなのだとしたら、それはホラーに限らず全ての作品に言えることだ。

例えばフィクションやSF。分からないものを登場させ、その詳細を明らかにして視聴者をワクワクさせる。例えば恋愛やサスペンス。不確実な人間模様を解決する様を描く。
形はどうあれ、作品には謎の解決が必要不可欠であり、続きに期待させ視聴者の好奇心を満たすことがその本質なのである。
探偵ものが一大カテゴリを成しているのも、その構成がそのまま作品作りの本質に根差しているからだろう。

つまり、日本ホラーは文字通り混沌である。作品の中の分からないものを解決する流れの「分からないもの」という部分を強調し、「好奇心を満たす」という部分を薄れさせる。
そうすると、宗教=科学がもたらされる前の原初の恐怖を感じることができ、それがホラーとして扱われるのだ。

現象が批判と分析をもって観察される以上、日本ホラーは「解決のない」、つまり起承転、で終わってこそ純粋にホラーとして有る。結ばれることがあれば、謎の解決がされて好奇心が満たされるということだから、ホラー以外の何かしらの属性が添加される。面白さ、悲しさ、怒り。
恐怖=分からなさ=混沌とは、それら視聴者の感情が生まれる前の、卵の状態ともいえる。

ここまで長かった。話が理解出来ない人にとってはこの文こそホラーであろう。つまりそういうことを話していた。

ようやく本題「変な家」がなぜジャパニーズホラーへの問いかけであるかを語る。

ジャパニーズホラーの界隈は、特に最近盛り上がっている。その殆どが地方伝承とモキュメンタリーホラー(実体験型)で構成されているが、それらの謎の解決はされない傾向にあった。よく分からないままオチをつけられる「おつかれさま系」、その後の行方が語られない「伝聞系」などに代表される。

また、映画としては特に、売り出し中の俳優を使ったおふざけホラーも流行った。恐怖と笑いは表裏一体というが、そんなわけはなく、笑いの主軸である緊張の緩みの、緊張の部分がホラーに置き換わっているだけである。ホラーはそれだけで笑いの土台になるのだ。
そこに日本ホラーの混沌を絡め、お化けを出してワーギャーやって、すったもんだでエンドロールというのが所謂おふざけホラーである。

「変な家」はどちらもやった。
しかし、それでいながらただの「おつかれさま系」「おふざけホラー」で終わるまいとする努力が感じられた。

まず、問題の解決の面である。本当にこれは良くやってくれた。分からなさを扱うというホラーの特性上、中盤までに視聴者は多くの疑問点を抱えることになる。しかし、それこそホラー作品だと割り切っている者としては、都度の辻褄合わせがあれば十分であった。しかし、ストーリー進行上の問題が解決してから後に、視聴者の疑問解決のための時間が取られた。序盤に生まれたものまで遡って解決しようとする脚本は有り難かった。流行りに乗るとすれば、謎を捨て置いてこそモヤモヤが残ってホラーだろう!となるところをそうしなかった本作は、一石を投じたは言い過ぎにしても、近況への問いかけを為したであろう。

次に、終盤のカオス部分についてである。あれは非常に近年のジャパニーズホラー味が強かった。特におばあちゃんチェーンソーについては言い逃れ出来なかろう。やれることをやり尽くしてやる!という気概が伝わってきた。しかし、ただのおふざけホラーと違って、「あくまでホラーを主軸にしますよ。もし笑うならそうしなさい」という全体の指針は合わせていたように思う。これが本当におふざけであったなら、もっと過剰な演出でやり切ることも出来た。しかし俳優たちの迫真の演技と、映画に一貫したストーリーをまず大切にして、この場面でのすったもんだが他に響かない程度に影響を留めていた点は評価に値する。ホラーを笑いの土台として使わず、カオス演出を添え物として扱った本作は、終盤で序中盤を消費するおふざけホラーの在り方に新しい形を提示したと言えるだろう。

以上が私の映画版「変な家」の感想である。本作の混沌の扱い方を参照して、より多様なジャパニーズホラーが生まれることをいち視聴者として期待する。

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