見出し画像

能面、トイレを侵す。

トイレに入った途端、うげ、と思った。
小窓のへりに胡蝶蘭の花が一輪、生けられていたのだ。

わが家のトイレは間取りの北にある。窓から直射日光が射すことはなく、一日中日陰だ。涼しい場所を好む生け花にとって、この場所は特等席であり、私たち人間からしても、排泄中の行き場のない目線を花々に注げるのは、なかなか気分がよろしい。
というわけで、わが家のトイレではよく花が生けられている。

しかしそうか、胡蝶蘭かぁ。
リビングに飾ってある鉢が花をつけ出したのは、もう2ヶ月も前のことだ。胡蝶蘭の花の寿命はとても長い。それゆえ商売繁盛を願う贈り物として、しばしば選ばれる。わが家にやってきたその鉢も、父がフリーランスとして独立した時に、仕事仲間からいただいたものだった。

私は胡蝶蘭が好きじゃない。
白く大きなその花はのっぺりと平面的で、能面の女の顔を思わせる。
そんな顔が、まっすぐ伸びた茎に沿ってずらりと並び、一斉にこちらを向いている。複数人の女にじっと見られているかのようで、非常に居心地が悪い。
咲いて2ヶ月も経つのに、変わらず瑞々しく、元気良く前を向き続ける姿も、作り物みたいで怖い。

リビングであればまだ良い。奴らが居座るのはリビングの隅の出窓だから、私が近づかなければいい話だ。
でもトイレは勘弁してくれよ。避けようがないし、トイレの中でくらい息をつかせてほしい。ちくしょう、安全地帯まで侵しやがって。
……と思ったのだが。

胡蝶蘭は首元で茎を断たれ、水で満ちた小さな小皿の上にふわりと浮いていた。どこから持ってきたのか、かすみ草が一本添い寝するかのように横たえられている。
そうして飾られる胡蝶蘭はなかなか花らしく、私ははじめてこの花をじっくり観察する気になった。

三枚に分かれた花弁は肉厚で純白。その表面は照明の光を受けて、まだ誰も足を踏み入れていない雪原のように、細かくきらきら光っている。そうか、だからこんなに真っ白く見えるんだ。
雄しべやその周りは黄色く色づいていて、紅色の斑点や流線で華やかに装飾されている。遠目に能面のような印象を受けていたが、その感想はなかなか的を射ているように思う。この流線には職人の筆致を感じる。

首だけになったその姿を見て、はじめて私は胡蝶蘭を美しいと思った。
無表情でおっかない女の能面から、職人が一つひとつ手仕事で作った伝統工芸としての能面に格上げだ。

トイレにいることを、まあ許してやってもいいかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?