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ハンコを捺してもらえれば。

時代に逆行して、ハンコというもののことがちょっぴり好きだ。
捺してもらうためだけにわざわざ出社、なんて目に遭ったことがないから言えるのかもしれないけれど。

小・中学生の頃、宿題をしてノートやドリルを提出すると、先生が何かしらの印をつけてくれた。それは時に赤ペンのマルであり、時にハンコだった。
私はハンコのほうが好きな子どもだった。

「クソ」とつけたくなるほど真面目だった私のノートでは、ひしめく文字が常に頭を揃え、つま先を揃え、整列していた。雑さも誤字も許さない。誤字があれば消しゴムで徹底的に抹消する。その消しカスがノートの綴じ目に挟まってしまうわぬよう、注意深く集めてゴミ箱に葬る。

そんなふうに統治されていた文字列の上を、赤ペンのいびつな丸が走るのは気に食わなかった。形の整ったハンコの印がちょこんと添えられるのは、嬉しかった。

ハンコには種類があった。
非の打ち所のないものには「大変よくできました」のハンコ。
普通にこなしているものには「よくできました」。
内容はともかくとして、努力の痕跡の見えるものには「よくがんばりました」。
そのどれにも当てはまらないけれど、まぁやってきたことは認めようというものには「がんばりましょう」。

私のノートには「大変よくできました」が並び、それは私の誇りだった。白いノートに、朱色の勲章はよく映えた。


中学校を卒業して以降、「大変よくできました」のハンコもめっきり捺されなくなったものだ。たぶん、あまり子ども扱いをされなくなったからだろう。
「大変よくできました」の言葉には頭を撫でるようなニュアンスがある。義務教育を終え、大人になりつつある私たちには似つかわしくない。頭を撫でてもらおうにも、身の丈が大きくなりすぎたのだ。

それに大きくなって、「大変よくできました」な仕事をする難しさも知った。


ところで、この頃の私はラジオ番組「スカイロケットカンパニー」をよく聞く。
トークを「会議」と呼んだり、リスナーを「社員」と呼ぶなど、その名の通り、会社をコンセプトとしたラジオ番組だ。マンボウやしろがパーソナリティーを勤めている。
時間になったらラジオをつけて耳を澄ます、というより、その時間に車に乗っていることが多いから聞いている。

「今日よかった人も、悪かった人も、アフター会議をはじめよう」。
そんな言葉ではじまる、いわゆる「ふつおた」(普通のお便り)のコーナー。
リスナー社員の悩みや報告を聞き、そのそれぞれに頷いたり笑ったり、時には首を捻ったりしながらトークをしつつ、最後にはマンボウやしろが「ハンコ!」と叫んで締めくくる。

同じくリスナー社員である母とも、この「ハンコ!」はよく言い合う。

「今日、いつものシャンプーが安かったから買っておいたよ」
「よくやった、ハンコ!」

「隣の部署の人と揉めて、ぶっ飛ばしてやろうかと思ったよ」
「やっちまえばよかったのに。ハンコ!」

「最近、前髪がうまく巻けない」
「知ったことか。ハンコ!」

共感できるにしてもできないにしても、讃えるにしてもけなすにしても、「ハンコ!」で締めくくれば何となく面白い。何となく認められたような気持ちになる。

そういえば、と思い出す。
先生がハンコは、何も「大変良くできました」だけじゃなかった。「よくがんばりました」もあったじゃないか。
完璧な仕事をする難しさを知った私は、同時に「それでもどうにかやりきる」仕事の尊さも知った気がする。誰かが見てくれる温かさもわかる。そんな誰かに「がんばりましょう」と叱られるのも悪くない。


ラジオから、マンボウやしろの声が聞こえる。
「ハンコ!」——「うん、いいでしょう」「うん、見ましたよ」。

勲章ではなく認印のハンコが、今はこんなにもありがたい。

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