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「不在」の視点

周囲から不意にもたらされる、「わたし なんでここに」という「不在」の瞬間。

そんな、他人に、場に、あわせることでうまれる退屈や疎外感は、タイムラインをじぶんに取り戻せば小さくなってゆく。
ただ、その場からどう消えようかをホクホク考えるだけ。

こっそり消えるならバッグとコートをさりげなくあそこに置いておこうかなとか、映画のシーンのように思いをめぐらせていると、疎外感からミッションにきもちが切り替わる。会場を出たときの心地いい後ろめたさと解放感で、ディメンター(*参照過去投稿)は散り散りになる。
状況はかわらなくても、視点をずらすだけで抜け出せる感情は多いなっておもう。

疎外感を感じる場って、みえないヒエラルキーだったり、謎ルールを要求されたり、マウントしたいだけだったり、ただ利用されてるだけだったり、わかっていて誰もフォローをしなかったり、あえてそう感じさせるために呼んだり、そもそもに無理があるか、微妙に故意であることが多い。

だから、「わたし」はわるくない。少なくともわたしだけがわるいということはない。なので場のムードを壊そうが知ったこっちゃぁない。

そうはいっても抜けだしにくいシチュエーションも多いとは思う。
でも、合わない周波数、尊重のない場に居続ける理由が

「へんなひと」「無作法」とおもわれたくないから

ならば、迷う必要なんてない。

意思表示をしないできない、「いいひと」を、意図的に利用されることはとても多いなっておもう。ひっそり帰るというアクションすらできない=その後も搾取され続けるということ。
えー極端な考え、とおもうひともいるかもしれないけど、経験上、多くの場でそうだった。

最初にできた関係性って、不思議なものでそうそう変わらない。
疑問だらけの間柄において、NOは必ずどこかですることになる行動。
ただ早いか遅いか、だけ。


リリィミンツ
SSMP
* ずっとウタうシゴトしています*

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