灰色の筆洗


友人

僕は友人が少ない。
しかし友人が少ないことを意識したことはなかった。

どちらかというと、友人が多い人間を見下していたほどだ。
なぜなら、友人が多いというのは人に好かれやすい人で、人に好かれやすいというのは猫を被っているからで、猫をかぶっているというのは本当の自分でいられないからで、本当の自分でいられないというのは嫌われるのを極度に怖がっているということになるから。

という、捻くれまくった方程式のもと、友人が多い人間を毛嫌いしている。

そして僕は大勢が嫌いだ。
仲の良い友人複数人と集まるのも苦手だ。

2人っきりなら楽しいのに人が増えた瞬間気持ち悪くなる。そしていつしか2人っきりでいることすら居心地悪く感じるようになった。

大勢でいるときの人は人の形をした何かに思う。
そんな"何か"と話すのは時間の無駄じゃないだろうか。
だから大勢が嫌いだ。

さらには自信がない人を見ると腹が立つ。
僕ほど何もない人なんていないのに、恋人や友人と楽しく過ごせるのに、なぜ自分を卑下するんだ。
僕と入れ替わってみろ。
僕の体になったお前の月曜日の行先は大学じゃなくて線路になるんだ。
片足の置き場所がなくなった瞬間元通りになって、そのとき自分がどれほど恵まれていたか気付いてほしい。

どんなに大好きな人でも僕は簡単に嫌いになれてしまう。
主なきっかけはその人にとって僕の価値が低いと知ったときだ。
僕は求められたから好きでいたんだ。好きでいてやったんだ。
なのに無責任に、適当に、雑に僕を扱いやがって。
きっと僕のことを好いてくれていたから僕も好きだと思い込むようにしていたのだと思う。
本当は別に好きじゃなかった。

ここまで来るといよいよ哀れだ。
見下していたはずの友人が多い人間を羨ましく感じる。

ここまでが2023年上半期までの僕だ。

お笑い


お笑いと出会ってよかった思う。
「僕は変わったと思う」と書こうとしたけれど違う気がした。
幼い頃の心が戻ったという感覚だ。
幼い頃は自信があって悩み事も少なかった。
友達と喧嘩したことやエロ動画の架空請求にひどく焦っていた程度だった。
かと言って今の悩みがこんなちっぽけことなわけではなくて、痛みの処理の仕方がわかったことで相対的に蓄積する痛みが少なくなったという感覚が近い。

小さい頃は明るい性格だった。けれどいつしか自信がなくなり、人と比べては落ち込んで、自分は「できない側の人間」と決めつけながらそんな世間に悪態をついて生きてきた。

しかしお笑いをするようになってからはどうだろう。
僕が四六時中吐き散らして周囲の人をドン引きさせてきた悪態の全てが人の笑いになった。

それは自信になった。自分は変わらないままで人から認められた。

はじめて世の中と繋がった感覚になった。

「笑いのカイブツ」という映画(原作は小説)でハッとしたセリフがある。

「お前をこんな思いにさせた世間を笑わせるのがお前の夢って皮肉だな」(伝わりやすいようだいぶ変えてる)

この言葉を聞いたとき、世間と繋がった感覚に喜んでいた自分が恥ずかしくなった。否、恥ずかしくなったという表現はそのとき感じた感覚に近い表現というだけで詳しくは未だ言い表せないのだが、僕の体に重くのしかかった。

僕はどちらかというと皮肉を言う側だった。世間に対して斜に構えて、「俺はお前らと違う」と思っていた。そう生きてきたのに、そういう生き方がそのものが皮肉の塊だった。

僕は世間を嫌ったけれど、きっとそれは世間に省かれた感覚がしたから無理やり嫌っただけだったのかもしれない。
別に世間は僕を省いてなんかいなかった。
けれどその勘違いが生んだ反骨精神が僕をここまで連れてきたわけで、間違いだとか失敗だとかは思わない。
たぶん1番良い未来を引いたと思う。

あとがき

あとがきなんて大層な。
誰かに見せたいわけでもなければ誰にも見られたくないわけでもない恥ずかしいエッセイ?をnoteに書き始めてしばらく経ちました。
毎回反応を示してくれる人がいるのが嬉しい反面、「俺なら絶対読まないから変な人たちだ」と思っています。
何かエッセイやら小説やらを書きたい気持ちは幼い頃からあって、今学生お笑いという立場を利用しある程度の人が見てくれるという保証のもと書いています。
小さい夢は叶っています。
執筆活動のゴールは特にないので飽きたらやめて、気が向いたら書き出すっていうのを続けたいです。
もっと歳を重ねたときに見返してどう感じるかも気になります。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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