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アマンダのこと

私はカナダで生まれ育ち、毎週土曜日に日本語学校へ通う以外は、普通に地元の学校へ通っていました。

幼稚園で場面緘黙になりいじめをうけた話はここでしていますが、英語に自信がついて喋れるようになってから、友達がひとり出来ました。

小学3年生の頃だったと思います。少し喋れるようになったとはいえ、まだとても大人しかった私は自分から話しかけることはできず、チームに別れる授業ではいつもあぶれて、先生と組んだり同じく大人しめの、残ったもの同士で組んでいました。ある日、転校生の女の子と私が同時にあまり、必然的に一緒に組むことになりました。彼女は金髪の髪の毛をおかっぱにしていて、背が高く、転校初日から学校にドレスを着てきたりと変わった言動で周囲から浮いた存在でした。名前はアマンダでした。

その日を境に何故か懐かれたようで、毎日休み時間を一緒に過ごすようになり、私がクラスメイトと喋っているだけで
「私の友達はあなただけなのに!」
と大泣きする(「●●ちゃんどこに行ったか知らない?」と聞かれただけ)など私を独占するような態度をとるようになりました。私は絵を描くのが好きだったのですが、いつも手放しで褒めてくれて、「銀色のくるまを描くんだったら銀色の色鉛筆を使えばいいのに」とクラスメイトの男子がチャチャを入れると、「じゃあ銀色の色鉛筆をあなたは持っているの!?持ってないなら黙ってて!」と掴みかかって喧嘩になったこともありました。

そのほかにも、またクラスメイトとペアを作って作業する授業で、別の大人しい女の子が「一緒に組んでもいい?」と私を誘ってくれて、先生が「いつもアマンダと組んでいるから、たまにはたんぽぽちゃんと組ませてあげよう?」と言っても泣いて拒んで、腕を離してくれませんでした。

アマンダには小さな妹が2人いました。全員腹違いの姉妹で、上の妹は5歳、一番下の妹は3歳でした。家に遊びに来て!と誘われて、放課後ついて行ったことがあります。新しい、とても綺麗な家でしたが、入ってびっくりしました。リビングダイニングにはソファしかなく、キッチンやテーブルには何も置いていなくて、生活感が全くなかったのです。

そして、床には新聞紙が敷き詰められていました。唖然としていると、子供部屋に案内されました。部屋にたどり着くまで、新聞紙の上に散らかった猫のフンを踏まないように歩くのが大変でした。子猫を2匹拾ったと話は聞いていましたが、顔が目脂だらけで身体はボサボサで、泣き声も弱々しかったです。子供部屋も二段ベッド以外なにもなくて、絵本が数冊置いてあるくらいでした。ベッドにはシーツがなく、マットレス、まくら、ふとんをそのまま使っているようで、とても汚れていました。思い返すと、アマンダが学校にドレスを着てきた時、大きなしみがいくつもあったのに気にしていなかったので、きっと洗濯をしてもらっていなかったのでしょう。

「最初のお父さんはね、ダディ。2回目のお父さんは、パパ。3回目のお父さんは、ダッドって呼んでた。ここに引っ越す前のことね。」とアマンダは3歳の妹のおしめを手際良く替えながら教えてくれました。妹は2人とも髪の毛の色も顔も全然似ていなくて、だけどとても可愛くて、胸がキュッとなり、その日は4人と猫で遊びました。時間が遅くなり私のお母さんが迎えにきても、アマンダのお母さんは帰ってきませんでした。

数日後、アマンダをうちに呼んだら?と母が言ってくれたので、招待しました。アマンダはとても興奮して、家の中をドタバタ走り回って私の服を脱がそうとしてきたり(何故だ)大暴れでした。母が得意のグラタンを作ってくれて、幸せそうに「こんなに美味しいもの食べたの初めて!」と何回も言いました。食事が終わり、遊び疲れてお風呂に入ってテレビを観ていても、アマンダのお母さんは迎えに来ませんでした。「お母さんには言ってるんだよね?」「8時には迎えにくるって」「もう9時だよ」と会話をして、母親も何度もアマンダの家に電話をかけますが、なかなか出ません。

11時くらいになってようやく、家のベルがなりました。出てみると、20台前半にしか見えない、あどけない顔の可愛い女性が玄関に気怠そうに立っていました。背後をみると、車の運転席に若い男性が乗っています。アマンダは「マミー!」と抱きついて、その日は帰って行きました。

その後、「グラタンが忘れられない」と、何度かうちに遊びに来ましたが、母親に「申し訳ないけどあの母親はうちをまるで保育所扱いしてるから、これっきりにして。お母さんも働いているし、毎回夜遅くに迎えに来られるのは困るよ。」と言われていたので、放課後は学校の校庭で遊ぶことが増えました。

とある日曜日、アマンダが妹たちと自転車に乗ってうちに来ました。「新しいパパができてね、私たちまた引っ越すことになったの」と泣いて抱きついてきて、アマンダの束縛に少々疲れていた私は「そうなの、さみしいね」と悲しい反面少しだけホッとしていました。

しかし、次の日の月曜日、学校で「引っ越しちゃうんだよね」と話しかけると「何それ?知らない」と言われました。アマンダは時々こうして私の気を引こうとするので、なんだ嘘か、とその時は思っていました。しかし、新学期を迎えると、アマンダはいなくなっていました。先生やクラスメイトも誰も行方を知らないそうで、もちろん当時はフェイスブックや携帯電話なんて持っていないので連絡をとる方法も思いつきません。クラスメイトに「アマンダがいつも睨んでくるから誘えなかったんだ、一緒に遊ぼう」と誘ってもらっても、アマンダのことを知っているのは自分だけのような気がして、なんだかもやもやした気持ちが残りました。

まだ児童虐待や育児放棄なんて言葉がなかった頃のことでした。アマンダとはそれっきりになってしまいましたが、時折彼女のことを思い出して、幸せに暮らしているだろうか、妹たちはどうなったかな、自分に出来ることがあったのではないか、と考えてしまいます。

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