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日記: それは複数であること(2024/09/19)

今日もいい天気。
朝のウォーキングとお墓参りをいつも通り。

朝ごはんは、甘塩鮭、サラダ、ルクルーゼで炊いたご飯でおにぎり。
お皿にごはんをとって水をまぶして縁側の近くにわかるように置いていたけれど、なぜかスズメ氏、今日は来なかった。

昼食も握っておいたおにぎりで簡単に済ませて、とにかく集中して終日仕事をする。
朝からエルからLINEが来ていたが、お昼ごはんを済ませてから返事をした。
ぼく的にはすぐにでも返してあげたいのだけれど、やはり頻繁なLINEのラリーは彼女の体力を奪ってしまうだろうし、パートナーとの時間も大切にしてもらいたい。

とにかく日々暑いのだ。
窓から輻射熱をいつも感じながら仕事をしている。
窓際に日よけのつもりで這わせたフウセンカズラの葉陰の向こうに大きなクスノキが見える。酷暑続きの日中は、陽炎でゆらいでいるように錯覚する。

子どものころに住んでいた家のそばに大きなクスノキがある小さな神社があって、いつも涼しかった。クスノキの葉をちぎれば、ひんやりいい匂いがする。すぐ近くに水が湧きだす泉もあった。アメンボがたくさんいた。

冷や冷やと木蔭をつたふ残暑哉  浪化

『白扇集』

庭に水やり、お風呂、お酒を飲みながら夕食作り。
いつもの決まったルーティン。
夕食は、豚しゃぶサラダとかぼちゃのお味噌汁。ごはんは抜き。

音楽を聴きながら読書。
リオタール『レヴィナスの論理』を読了。リオタールは、(翻訳がどうこうというより)そもそも文体のクセが強すぎて、慣れて脳味噌に入ってきてくれるまで時間がかかる。無理して頭から読まずに、まずジェラール・スフェズの解説文から先に読めばよかったし、この本を読みたいという奇特な方にもそれをオススメしておきたい。

ここでリオタールが為したかったことは、レヴィナスによる他者をめぐる思惟とハイデガーによる存在に関する思惟との近縁性の暴露だったんだろうと思うが、まあそれはそれとして(重大な申し立てであろうけれども)、ハードな論考の合間に挿入されているリオタールとレヴィナスとの討議「知とは別様に」は意外と大事なんじゃないかと思う。決して和やかなふうでもないけれども(もちろん編集による強引な着地を感じさせる結論ではあるにせよ)、個人的にいま、自分のいる情況の指針となる言葉だと感じる。この討議は、リオタールとレヴィナスの、哲学に対する姿勢の本質的な段差を示し、かつ、それとは別に、他者に対する友愛、他者とともに/そばにいることの大切さを嚙みしめさせてくれる。以下、レヴィナスの発言を引用しておく。

エマニュエル・レヴィナス――知ではない思考の可能性を喚起しつつ、私は何より前に――あらゆる観念の前に――誰かの近くにいることのうちにある、精神的なものを主張したいのです。近さ、つまり社会性そのものは、それを表現する知とは「別様に」あるのです。知とは別様にとは、信仰ではありません。私は顔と呼ぶものに「価値をおく」思考が導くのは精神的生――たいそう信用されていない語ですが――人間の近さの生です。それは複数であることです。したがってそれは、異邦的な誰かと「ともに」いること、そこに〈無関心でいられないこと〉が存するのです。この社会性、この近さ、この近くにいること、それは合致の代用品でもなければ、ましてや確実性の代わりの信仰ではまったくありません。哲学が愛であるという有名な知恵とはこの近さではないでしょうか。
ひとのあいだの関係であるものすべてにおいて、私はリオタールのように経験なる語を取り除きます。この社会性は他者の経験ではありません。それは他者の近さなのです。それはお望みならば他者への愛であり、他者との友愛です。他者の死に無関心でいられないことです。このことはたしかに次の信条に翻訳することができます。私にとって他者の死が、重要さと深刻さにおいて私の死に先行することを考えながら他者とともにいることです。おそらくこのように考えることはとても難しいですが、聖性を疑うことができないがゆえに、他者とともにいて無関心でいつづけることは不可能なのです。

ジャン=フランソワ・リオタール(松葉類 訳)『レヴィナスの論理』


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