日記: 樫の樹に差しこまれたくさび(2024/09/18)
朝はウォーキング、川沿いの土手を歩く。お墓参り。
早朝はだいぶ涼しくなった。
朝食は黄金桃、ヨーグルト、紅茶。
最近どういうわけか、縁側の窓際近くまでスズメが飛んでくるので、ごはん粒を少しと桃をおすそ分けした。桃をおいしそうに食べていた。
ヒズボラが台湾企業から入手したというポケベルが2000個以上爆発したというニュースが流れる。イスラエルがポケベルに爆発物をしかけていたらしい。台湾企業がライセンスを供与したのはハンガリーの会社らしくて、もしかするとそこがモサドのダミー会社であったりしたのかもしれない。
ひとりで仕事をのろのろと。
昼食はトマトとキャベツの千切りサラダ、インスタントのコンソメスープ。
夕方、エルからLINEが来てほっとする。
何通かやりとり。パートナーが作ってくれる食事がおいしいらしい。仕事を終えて庭に水撒きと夕食。鶏手羽元とゆで玉子のポン酢煮、キャベツの昆布蒸し煮など。
お風呂に入って読書、『ジャック・デリダ講義録 死刑 [Ⅰ]』。
2000年に行われたデリダのセミネールで、彼の講義としては例外的に論旨が明快、それゆえ「らしくはない」。第4回から第7回くらいまで、ヴィクトル・ユゴーの死刑反対演説(このテキストをぼくはこれまで知らなかったけれども、良くも悪くも心を揺さぶられた)、カール・シュミットの例外状態論、ブランショ、カントの定言命法と(それを鼻で笑うがごとき)ニーチェの全否定、このあたりのデリダの語りは流れが(あくまで「流れ」が)スマートでドラマティックで素敵。『道徳の系譜学』は読みなおしたくなってくる。
「刑法の始原に商法がある」だの、「法の経済学(量-刑、つまり法にアプリオリに内蔵されている算術や等価原理)を誰も信じていないのに、――そして「信」がないがゆえに――、信は存在しているがごとく堂々と構えていられる」という珍妙な状況を暴露的に語っていくところなど痛快。「死刑の節約」なんてシニカルな表現をよくも思いつく。しかし、生どころか死もまたエコノミーに支配されているという事実自体は、バタイユを引くまでもなく明らかで、だからこそわかりやすい。まあ語り口はやたらくどいんだけども。
ほんとうに偶然だが、デリダ講義録の新刊が11月に出るのもXで知った。
フッサールによるデカルト「第五省察」に対する注釈をネタにした60年代前半の講義らしい。フッサール『幾何学の起源』を訳した副産物かもしれない。ほんの少しだけれども、いま併読しているリオタール『レヴィナスの論理』にもこの第五省察に対するフッサール注釈の話は出てくる。この講義録はたいへん楽しみ(個人的にはデリダのキャリア初期の講義にはとても興味がある。『ハイデガー』も1964年の講義でたいそうおもしろかった)。
「負けヒロインが多すぎる!」9話と10話を観たので寝ることにする。
ほんとうに丁寧な演出のアニメだと毎回感心している。