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私の嫌いな言葉、「世界は自分が作っている」

ある強い思い込み?信念?が、私にはずっとあった。

この数年その思いは、自分の中から湧き出てくるようであった。目に見える世界より、よほどリアルに感じていた。そして外側からも、その思いが強くなる出来事が、たくさんたくさん起きてきた。

でもこの数年、リアルには、そのことで何の動きもなかった。期待していたようには、なかなか上手くいくことはなかった。

そのこと以外では、前進できている。それに自分自身まだ準備が必要だったのだなと、思い知らされることも最近になってあった。

だからなにか意味があってここまで引き伸ばされており、今後、最善のタイミングで展開する気もしている。

一方で、このまま何もないのでは?単純に思い込まされていただけでは?とも思い始めた。もしやこの思い込み?信念?は、私が他の選択肢を選ばないためのストッパーの役割に過ぎなかったのでは、と。

まだ弱かった私が、日々を安全に過ごすための、安全毛布だったのかな?って。

それならもう、手放したい。いやもう何度も手放そうともしてきたが、揺り戻しが起きたのだった。でもだいぶ思いが内側から湧き出ることもなくなったし、やっぱり吹っ切りたい自分がいた。

そして、瞑想をした(毎日瞑想はするようにしている)。

すると浄化が起きたのか、強い感情はないままに、涙だけがダラダラ出て止まらなくなった。でもいちいち意味を考えたりせず、そのままほっといた。

瞑想が終わるまでずっと涙は続いたが、そのうちにきづいた。

自分こそが、今そのことを強く求めているんだと。これまでは、そこまで強く求めていなかったと。そのことへの感性が欠如しており、自分がずっと現状維持できるよう望んでいたこと。

「世界は自分が作っている」という使い古された言葉があり、わたしはこの言葉が嫌いである。なので一回も使ったことがないし、これからも使うつもりはない。

しかし、今回の瞑想にて、痛切に感じたのはこのことだった……

私が今の状態を作っていたんだ、と。

そこに気づいたら、気持ちが落ち着いた。まだ今後どうなるかわからないけど、妙にスッとした。

これまでのことも、点と点が繋がって線になり、納得した。


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