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『京都人の密かな愉しみ』と幻想の京都

以前、何度かNHKで観てハマったシリーズ番組。録画して、時折また観返している。コロナ過で撮影が難しいのか、次回が待ち遠しくなるような名作。

それぞれの役者の演技はもちろん、各シーンの映像の切り取り方と音の入り方、またナレーションを含むセリフの入り方が本当に絶妙。京都を知りかつ深く愛する視線で、四季の変遷を背景に営まれる住人たちの物語を、ドラマとドキュメントという虚実を織り交ぜて、抒情深く魅せる。ラストでいつも流れる武田カオリの「京都慕情」がなんとも素敵な編曲!老後は京都住みたいなあ、なんて幻想させる魔法の番組だ。

大阪で育ち、大学まで大阪にいたので、京都は四季折々訪れる身近な観光地、それもどこか特別な観光地だった。高校、大学時代のデートの定番も京都だった。就職し上京してから、度々訪れた。昭和から平成になり、京都はどんどん再開発され、国際観光都市としての受け入れ体制を作っていくようだった。巨大なファサードのような駅。規制緩和で続々と建設される大型ホテル群。京都の最大の魅力であった景観と街のたたずまい、ゆるやかに流れていくかのような時間がどんどん効率化へと急き立てられるかのようだった。やがて、私も仕事に追われ、徐々に京都から遠ざかっていった。

京都は、心の敷居が高い街、と言われる。もちろん、観光客として行くと歓待してくれるし、十分すぎるほどの街の文化的な魅力を享受できる。しかし、「いちげんさん」から「常連さん」、さらには「住人」として敷居を越え相対してもらうためには、一定の時間とコミットが必要となる。それだけではない。あなたが京都を愛し京都に与えているものは何か、をどこか品定めしているようなところがある。それは、お金ではなく、仕事とそれに費やした時間=歴史のようなものだ。教師か僧侶か職人か商人か。それらの人々の持つ、金だけではない矜持。その人々の全ての蓄積が、京都の文化を芳醇にさせていく。破壊と創造による都市文化=モダニズムではなく、暗黙の文化様式を前提とする中での慎重な排除と包摂の街。保守的と言えば十分に保守的だが、そもそも文化とは保守的なものだ。その文化的な場所での生活様式や思考・作法が、今だ変わりにくいからこそ、それが崩壊してしまった場所で生きている人々は憧れ、何かを取り戻すために訪れる。京ことばにおける絶妙な距離の取り方、共同体の中の人か外の人かを慎重に選び取る町衆。近代的市民というよりは、中世的市民の残存。しかし、見事な自治。

確かに生まれや代々の職という自由と運命の狭間で、様々な想いや葛藤を巡らせ揺れる京都の市井の人々を描くこのドラマ・ドキュメンタリーは、できすぎているほど美しい。でも、ここまで美しい部分を抽出できる街であるということの素晴らしさ。かつてここの住人(大学生?)であったのであろう、制作者たちの青春の夢と過去の回想がこの設定と演出を生んだのではないか、と思わせる眼差しの距離感。それは、京都に在住する外国人大学教授役エドワード・ヒースローの視線とも重なる。「京都人の不可解で美しい生活」。この言葉につきるであろう。「外部」から見ているからこそ「内部」は魅力的に見える。「知らぬが花」とも言える。観光とエキゾチズム。やはり京都は稀有な場所だ。

京都は遠くにありて想うものか..。




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