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毎⽇、病院に通った⺟。

 5年前亡くなった父に関する回想。最後の半年の季節がまたやってきたので、書き留めておこうと思う。


 どんどん弱り、家で寝てばっかりになっていた86歳の⽗。なんとか⽇課にしていた杖をついての散歩も、春ごろからその距離が短くなり、とうとう⾜が痛くて歩けないと⾔うようになった。少しづつ固有名詞を忘れ、近い過去の記憶もあいまいになり、何⼗年も前の元気で若かったころの鮮烈な記憶がよみがえるのか、突然話し出したりしていた。
 夏前から、⾜が痛いと苦しむようになったので、主治医の紹介で⼤学病院へ連れて⾏った。がんの転移です、と⾔われた。静かに肺がんが進⾏していて、それが⾜の⾻に転移していた。あまりに突然のことに、私は唖然として、ことばがなかった。あまりに静かな⽇々だったので表⾯にでてこなかったのだ。⺟は黙って聞いていた。この歳と体⼒では、他の病気との関係もあり治療は困難ですと⾔われ、緩和ケアのための病院に⼊院させた。この間、寝たきりが続いたせいか、体⼒も落ち認知症も進んできていた。
 幸い⾃宅から近い病院に⼊れたので、私は毎週末顔を⾒に⾏っていた。⺟は毎⽇、⾏っていた。そう、この⼀か⽉⼤荒れの天気の時以外、毎⽇会いに⾏っていた。完全介護の病室に⾏き、⽗の寝顔を⾒ているようだ。起きた時は、話しかけ答えを待つ。あまり話さない。でも、表情でいろいろ伝えてくるようだ。時折、思い出したことをぽつっと話す。⽢いものが⾷べたい、という。20分ほど横にいて、帰る。それが、毎⽇に組み込まれた⺟の⽇課だった。体操も歌を歌うのもめっきり⾏かなくなった。僕は、⾏けと⾔っていたのだが。
 1950年代の戦後復興がスタートしたころ、同じ会社で出会い、親の反対を押し切り、結婚をした⼆⼈。政治経済で頭の中は固められ、頑固で論理的。⼝では男⼥平等を⾔うくせに、⽣活はまったくその逆。家事が何もできなかった⽗。そしてそれをさせなかった⺟。それに反発し、「⽂化的で具体的なことができる⾃⽴した⼈間になろう」と決めた私。しかし、昭和ひとけた⽣まれのあの⼆⼈は、何があろうとも⼀⽣を添い遂げようとしてきた。⽼境の愛情とはどういうものか、その身をもって見せつけられた。⽗は幸せ者だった。

 父の死後、残された母は、一人暮らしながら、しばらくどこか心ここにあらずの時間を過ごし、物忘れがひどくなっていった。今の日々をなんとか過ごしながらも、心は昔の記憶に満ちている。週二回訪問する私にも昔話をよくする。しかし、昨日のことも思い出せない。静かな余生だ。

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