シンで、エヴァンゲリオン

前提

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 血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする

 バルト9を出る。珈琲タイムスでウィンナーコーヒーを飲みながらパンフレットを読み、昼飯にカレーを食ってから、私は友人をバイクの後ろに乗っけて、小雨降りしきる甲州街道を下って行った。家に着いて、少し友人と話したのち風呂に入って2時間ほど眠る。夕方目覚めてから、私はずっと布団をかぶって、NETFLIXで『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を見ていた。続けて3回見た。見るたびに泣いてしまった。
 「他人だからどうだってえのよ。」初号機の横でただ膝を抱えるシンジ。「死ぬのは嫌。」引き延ばされている大腸。「お待ちしておりましたわ。」銃口。乳房へと手をうずめるゲンドウ。「ダメ。碇君が呼んでる。」「ただいま。」おかえりなさい。「ここにいても、いいの?」(無言)。
 星を覆うほどに巨大で真っ白で柔らかそうなリリスの胎内は、かつて星を覆い尽くしていた無形の否定に満ち満ちていて、それは嘔吐するほど多量かつ高濃度のまま、枝分かれを繰り返しつつずーっとむこう、真っ赤な水平線まで延びていく。
 しかしだからこそ、シンジがその果てで掴んだ微かな手応えは、たとえそれがどのような結末を迎えるにせよ、もはや否定し尽くされたがゆえに、真実としか言い様のなくなってしまったものだと思う。この真摯さ!だから私は泣いてしまう。虚構か現実かなんて、どうでもいい。『Air/まごころを、君に』の表皮に浮かびあがるテーマは、確かにエヴァンゲリオンという虚構の否定かもしれない。「でも、あんたとだけは、絶対に、死んでも、嫌。」だがそれはけして現実の肯定を意味していない、と思う。「庵野、殺す!」虚構も現実も平等にクソを喰わされている。「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」
 あるのは欺瞞と真実だけなのだ。『まごころを、君に』 これほど内容をはっきり言い表したタイトルを私は寡聞にして知らない。庵野秀明は彼の真心を、ぶよついた襞の重なりやそれを伝い滴る体液まで一切隠すことなく私たちに見せてくれた。それで、私はそれに応えるようにして、『Air/まごころを、君に』を好きになった。そしていまでも好きなままだ。

以降、シンエヴァへの悪口

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もう20年も前に終わった作品について最初に語ったのは、私がどういうスタンスでエヴァンゲリオンを見つめているのかということを、多少なりとも明らかにしておく必要があると思ったからだ。
 シン・エヴァンゲリオンは、激烈なNTR映画だった。私は式波のことを話しているのではない。確かにバスタオルをかけられる件は嘔吐しかけたが、すべて見終わった今となっては、そんなことはもうどうでもいい。すべて寝取られたからだ。アスカもシンジも、レイも、ゲンドウもトウジもケンスケもミサトもリツコもカヲルもマヤも、そして何よりEOEを生み出した庵野秀明が、善き大人という概念に寝取られた。
「食え。働け。親になれ。地に足をつけて生きろ。」平日の午前7時、あのシアター9に隙間なく詰め込まれた人々の中で、何人が有休をとってまでわざわざ見に来たのだろうか。私も有休をとった。私は毎日食って、働いて、残念ながら親にはなれそうもないが、生きている。ただときどき飽きてしまうので、面白いものを探しに映画を見に行く。その結果、障碍者の代わりにキャラクターをおもちゃにした24時間テレビを見せられたかと思うと、笑うに笑えない。EOEを指して「オタクへの説教」などと揶揄する向きもあったが、私にはシンエヴァのほうがよほど説教染みているように思える。EOEはオタクへと殺意を向けるが、シンエヴァが向けるのは生暖かいまなざしだ。EOEは庵野秀明の実感を映像で紡いだが、シンエヴァは人生の真理を直截簡明な言葉で説いた。わかりやすくて結構なことだが、私は言葉を用いて語られる人生の真理らしきものに価値を一切感じられない。それは言葉にできないし、すべきではない。生活を営む中で、自ら挫折と成功を繰り返しながら少しずつ気づいてくしかないものだと信じている。そもそも、現実を善く生きていくのに必要なことを現実と同じように提示するのなら、映画の必要性などどこにもない。現実の根底を支える食と愛と労働を、いまさら昭和の農村風景で描き出そうだなんてそれこそまさしく虚構で、欺瞞過ぎて、吐きそうになる。いまこの日本に住む1億2000万人のうち何人がそんな生活を送っているというのか。現実を肯定したいなら、街を散歩したり、友人とうまい飯を食ったり、昼寝したり、家族と話したりするほうが、はるかに効率的で意味がある。二度とこんなクソ映画見るか。そう思ってほしかったんですよね。もう終わったアニメなんか見てないで、明日生きていくことだけ考えよって、そう思わせたかったんだから、これは大成功ですよね。
 死ねよ老害。頼むから、もう死んでくれ。

ドギショい罪で死刑

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 私はEOEが好きなのであって、はっきり言ってしまえば、他のエヴァなどどうでもいい。序も破もQも面白かった。それ以上でもそれ以下でもないけれど、それでよかったのだ。エヴァンゲリオンという物語世界はEOEで完璧にその幕を閉じたのだから。だから私はシン・エヴァンゲリオンに、EOEを乗り越えることなど求めていなかった。EOEのことなんか忘れて、その名の通りまったく新しい何かを作ってほしかった。「忘れる」という言葉が惨いなら、「許す」と言い換えてもいい。EOEのことはもう許して、全然関係のない何かを作ってくれればよかったのだ。シンジ君も許したでしょ?カヲル君が目の前で死んだことをあれだけ引きずっていた彼が、綾波レイ(仮称)がLCLと化したあと即座にヴンダーに乗る覚悟を決めたように。18000の命を奪った震災を想起させる紫色の津波が、誰一人押し流さなかったように。ゲンドウが自らのエゴを自覚してからも、インフィニティにされた人々に一瞬たりとも罪の意識を抱かなかったように。乗り越えるってことは、許すってことなんだろう。だったら、過去を振り返ることなく、前だけ向いてろよ。まるで責任を取るとでも言うように、最も美しいセル画の死体のテクスチャを、CG処理でなめらかにしないでくれ。さよならをしたいなら、何も言わずにさっさと消えるべきなのだ。EOEの死体をほじくって遊んでまで、表現すべき何かがあの映画のどこにあった?

 どうでもいいなら、なんで見たんですかね。『Air/まごころを、君に』と同じ熱で描かれた何かを見せてもらえるかなって、期待してしまったんですよ。だって、作り上げた本人が総監督をやってるんですから。
 その期待の虚しさを知りながら無視し続けたのは、私の罪である。新劇場版:破でもう庵野秀明が『Air/まごころを、君に』を作らないし作れないことが分かって、シン・ゴジラでそれが確信に変わったのに、あの頃の真心を望み続けてしまった。シン・エヴァンゲリオンは、その罰だったのだと思う。
私はいい年こいて片思いに耽る中学生みたいでドぎしょい。ドぎしょい罪で死刑。この話は、つまり完全な逆恨みであり、それ以上にもそれ以下にもならない。そのことを頭の片隅に置く必要がある。

オタク君がもう、庵野でシコらなくていいようにする

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 EOEで死んだエヴァンゲリオンは、その皮膚の内部へと巣食った二次創作によって二十年もの間動かされ続けた。EOEは切実な断末魔だからこそ美しいのだが、逆に言えば断末魔であるがゆえに、無軌道に繁殖を続けていた二次創作を駆除するどころかむしろのさばらせてしまった。庵野秀明にとって、これこそが最も耐え難い事態であったように思われる。どこまで行っても自分のことしか書けない作家にとって、写し身であるアスカとレイがシコられ続けている状況は、自らでシコられ続けていることに等しい。「気持ち悪い」という台詞は、宮村氏を通して言語化された庵野自身の感想なのだ。EOEは明らかに失敗した。作品として極限へと行きついておきながら、彼の目的を叶える道具としては、全く無意味であるどころか有害ですらあった。顔のない他人がひり出した欲望の放つ、栗の花にも似た耐え難い異臭にさらされ続ける地獄の中で、彼はひたすら待ち続けたのだろう。死ぬほど気持ち悪いオタクどもと、連中をのさばらせることしかできなかった自らの真心とが思い出に変わってくれるのを、そしてそのために必要な、目的を果たせる新しいエヴァンゲリオンを。あ、決戦兵器ってそういうこと?
 「エヴァンゲリオン」という物語を終わらせるのではない。そんなことは97年にとっくにやっている。終わらせるべきなのは、いつの間にかエヴァの本体へと成り代わっていた二次創作と、それを生み出すオタクどもの想像力だったのだ。オタク君がもう、庵野でシコらなくていいようにする。シン・エヴァンゲリオンは、作品というより兵器に近い代物だろう。エヴァンゲリオンというコンテンツと、もはやその本体と化した二次創作と、そして何よりそれを生み出す私たちの脳内エヴァンゲリオンにさよならを告げるために進化を遂げた、機能的で無駄のないまったく新しいエヴァンゲリオンはEOEの皮膚をひっかぶり擬装とすると、待ちに待った劇場公開に浮かれる気持ち悪い連中に照準を合わせて、引き金を引いた。
 シン・エヴァンゲリオンが駆除しなければならない厄介なオタクは大きく三種類に分けられる。第一に、やたらめったら設定に注釈をつける理系オタク。第二に、現実にいるわけでもない少年少女の関係を妄想してシコる文系オタク。最後に、自分で勝手に作ったなぞなぞに独り言を垂れる考察オタク。シン・エヴァの手際は惚れ惚れするほど鮮やかだった。
 シンジ対ゲンドウの戦闘が撮影スタジオで行われて第一のオタクは射殺。きわめて心理造形が単純になったキャラクターの人間関係はとてもさわやかで第二のオタクは消滅。明快でありきたりな台詞によって伏線がきれいに回収されて最後のオタクは成仏。キルレシオは驚異の3:0。TVシリーズと新劇場版を比べてなんか言ってるめんどくさいおじさんは、もう二時間半の映画なんか見られない体になってるからノーカウント。いくらでも他の要素を上げていくことはできるだろうが、キリがないのでやらない。とにかく私が言いたかったのは、シンエヴァは目的を果たすに十分すぎる性能を持っていたということだ。
 オタクはみんな死に絶えた。もう庵野ではシコれない。残ったのは「庵野監督も大人になったんですね。」とか「おつかれさまでした。」とか言い出す「あなた、誰?」な大人たちだけだった。
 EOEを旧劇と呼ぶことに抵抗がある人は、もういなくなってしまったのではないかと思う。新旧が単に時系列の話ではなく、時代性を含めた話だとするならば、新劇場版はシンエヴァによってやっと現代エヴァンゲリオンとなったのだろう。そして現代にエヴァはいらない。私はシン・エヴァンゲリオンを世に出すことの意義を認めずにはいられない。エヴァンゲリオンという、不幸にも25年間にわたって続いてしまった数奇な巨大コンテンツを終わらせるにあたって、あれ以外の方法は確かに考えられないからだ。まあ、終わらせる必要があったかはわからないが。自分でシコられるのって、見知らぬ他人のお人形になるのって、そんなに嫌ですか?

おわり

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 私の中の庵野人形は壊れてしまいました。私はもう、EOE以外を見ることはないでしょう。『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』は、本当に美しい作品です。そして作品であるがゆえに、作者がシンでも美しいままでした。庵野さん、向こうでも元気でやってくださいね。さようなら。つらいです。

フランス語訳してしまえ花のようにかきうつす手のすでなる結論

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