視線の先~「高校教師②」
高校は、調布基地に隣接した新設校だった。
基地発着の騒音防止から、全校に二重の強化ガラスがはめ込まれ、そのため全室冷暖房完備という、東京都のモデル校であった。
シャワー室も設けられた校舎は、有事の際には米軍家族用避難所になるのだと、陰では噂されていた。
開校前、出生率は僅かながら上昇していたこともあり、クラス定員を40人以上に想定し、クラス数は10クラスというマンモス校であった。
そして、新設校に相応しく、新任の教師も多く、米倉康雄も教職に就いて3年目の新米教師だった。
米倉との個人授業は、提示された論文のテーマを一週間以内に提出するという単純なスケジュールから始まった。
どのテーマも、起承転結もしくは序破急で論を進めるよう言い渡された。
(なんだそれだけ?)
というのが、リリ子の正直な感想だったが、次第にテーマが難しくなるにつれ、論を組み立てることの難しさを味わい始めた。
ある週のテーマは「人間工学」であった。
ネットもない時代に、古臭い百科事典をひっくり返し、人間工学とは何か?から調べる作業に時間ばかりを費やしてしまった。
自分とは関係のないサイエンスの世界だと思っていた「人間工学」が、身の回りの至るところに散らばっていることを認識し、書きあげた小論文は提出日ギリギリであった。
放課後の職員室で、米倉の採点や指導を仰ぐわけだが、今回は全く自信が無かった。
米倉は眉間に皺を寄せて、原稿用紙を読み入っている。
「あのぉ先生、今回とても難しくて・・・」
と話しかけると、
「これ、お前が書いたのか?」
そう言うと、大きな湯飲み茶わんから茶をすする米倉が続けた。
「何かを写したわけじゃないだな・・・うん、難しいことを解り易く具体を挙げたことがリアルで関心するぞ。」
「本当ですか!」
リリ子は、母親にさえ褒められたことがない心の空洞部分を、米倉が埋めてくれたことで言い知れぬ充足感を初めて味わった。
そのことを米倉に言える筈もなく、ただ熱い視線を投げかけてしまったのは、蒸し暑い夏休み前だった。
(つづく)
※事実を元にしたフィクションです。
人物や固有名詞は全て仮名です。
同じ名称があれば、それは偶然ですのでご了承ください。