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知らせない時間~「高校教師⑪」

その日は朝から居間に座ってテレビを観ていた。
いや、テレビを観るふりをして、サッシ窓越しにぼんやり浮かぶ郵便受けを見つめていた。

いつもなら、なるべく母とは一緒に居たくないので、用事を作っては二階に行くのだが、今日は来るであろう合否通知を待っていたのだ。そのことを母には何も言っていないので、新聞のテレビ欄から面白そうな番組を見つけて、さもテレビ番組に興味があるフリをして過ごしていた。

「雪でも降りそうだから、今のうちに買い物に行って来るわ。」

という母のひとり言を聞いて、内心ほっとした。

(その間に来たらいいのに)

とにかくリリ子の母親とは、何につけてもリリ子のことをよく言わない。たとえ合格通知だとしても文句を言うのは目に見えているので、リリ子は話すタイミングなど状況を整えておかないといけないのだ。
慣れたとはいえ、毎日がストレスの連続だった。

昼近くになっても空はどんよりとしていた。その時路地からスーパーカブのエンジン音が聞こえて来た。リリ子は郵便受けまでつっかけで行くと、直接郵便配達人から手紙の束を受け取った。

(寒い!)

と思った時に、ポツリと頬に小さな水滴が落ちた。

初雪になるかもしれないなと思い、炬燵の上に郵便の束を広げる。
その中に確かに一通の封書があった。

一般受験者とは枠の異なる推薦受験者の合格者には、確実に入学手続きをして欲しい学校側の事情があるらしい。
なので、合格の嬉しさに浸っているうちに書き込んで貰おうと書類を同封するのだとか。
米倉がそう言っていたことを思い出しながら、やや厚い封書を空けると、果たして合格通知と入学手続きに関する書類が入っていた。

これで米倉との交際もコソコソしないで済む。そして、何よりも大学生になれば、口うるさい母親の監視の目も緩むだろうと思った。

(母親が戻る前に米倉に電話をしよう。きっと喜んでくれるはずだ。)

「先生、受かりました。合格しました!」

「そうか。良かった。」

「色々と先生に指導して貰ったからね。」

「・・・うん。」

「先生、今、何か都合悪かったの?」

「いや、何でもないんだ。すまん、また後で連絡する。」


そこで通話は切れてしまった。

(お客さんでも来てたのかな?)

リリ子はそれ以上考えず、それより母親に入学手続きという、気の重い事柄を伝える作業が気にかかっていた。

入学金、学費、指定の教科書代に同窓会費用などなど。
それに、これからは私服でいいのだから、洋服も買って貰わないとならない。

兄には何も言わない母だが、きっと私には嫌味を言うだろうと思うと、何とも気が重かった。それでも、お正月前に学校が決まって良かったと思うことにした時、買い物から母親が帰ってきた。

◆◆◆

米倉は、リリ子からの電話を早々に切ると、遠くに住んでいる兄に電話をした。

「あぁ兄さん、もうダメらしいんだ。年を越せるかどうかって・・・。」

「そうか・・・。親父やお袋はなんて?」

「家に連れて帰ろうって。」

「そうだな。解った。俺も帰れるようにする。仕事を調整して連絡するから、お前、それまで頼んだぞ。」

リリ子に「おめでとう」の一言が言えなかった自分を後悔しながらも、米倉は、妹の最期を妹が生まれたこの家で見送る準備に心は張り裂けそうだった。

何よりも心配なのが年老いた両親だ。

父は、一階の応接間にベッドを入れられるように、ソファを動かしたりしているが、きっと泣いているのだろう。時折聞こえる洟をかむ音で判る。

母は台所で、妹の茶碗やコーヒーカップを洗っては拭き、洋服ダンスを整理しては泣いている。

これが逆縁ということなのか。

米倉は、妹が生まれた時に庭に植えたクチナシの木に、立ち枯れになった赤い実を見ると、寒さに震えている妹のようで胸が詰まった。

妹の病気に関して、リリ子には詳しく話していなかったが、いよいよ最期となると、どこから話そうとも妹が不憫で仕方ない。

米倉は有給を取ることにして、そのまま冬休み明けまで学校を休むことに決めた。

(リリ子には生きる時間がある。それだけで十分じゃないか!)

米倉は、リリ子を愛しているのに、リリ子が憎いような恨めしい気持に厄介さを覚えながらも、今、見たいのは妹の笑顔だけだった。
そして、自分は妹を安らかに送ることだけだ。

(チクショー!送りたくなんかない!ずっと生きてくれ!)

何度も握る拳。
それを振りほどくように浮かぶ医師の言葉・・・「最期は痛みとの戦いになりますから、モルヒネを出します。これで眠るように亡くなる筈です。」



応接間に行くと、父親はピアノの椅子に座って背を丸めていた。

「康雄、これでベッドも入るだろうからピアノはこのままでいいだろう。」

「あぁ大丈夫だね。ピアノも弾きたいだろうし・・・」

そう言いかけた時、一度も弾いたことのない父親はピアノを弾き出した。

それは「きらきら星」の曲だった。

ドドソソララソ~

何度も何度も間違えながら父親は弾いていた。

(あぁそうだったのか!妹の初めてのピアノの発表会の時、一緒に練習してたのか)

父親の丸まった背中が小刻みに震えている。

明日には帰宅する妹の前では決して泣くまいと心に決めていたのに、今日はダメだ。不覚にも泣けて仕方なかった。


空からは灰色の紙屑のような雪が舞い始めていた。
(つづく)



※事実を元にしたフィクションです。
時代は1980年代です。
人物や固有名詞は全て仮名です。