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東京で砂漠を見た~舞台『夏の砂の上』自分的初日~

世田谷パブリックシアターにて。
2022年11月5日。マチネ。開園3日目。通算3回目の上演。
その日が私の初日だった。

個人的なことになるが、
チケットを購入した時からこの時期は
すごく仕事が忙しくなる見通しがあった。
当日まで仕事になるかもと恐れていた。
そんな個人的事情から会場のあるキャロットタワーに足を踏み入れた時に
心から安堵し、観劇できる喜びに震えた。
今まで鬱々していたのが舞台を見ることで
パワーを貰い、「飢えて」いたのが潤った。
エンターテイメントって大事。

さて、以下は内容に大きく触れていきます。

私は耳が聞こえない。
補聴器を通し、まったく無音ではないが、
でもほとんどの音は拾えない。判別できない。
長崎の言葉で語られるというこの舞台。
音声という面では分かっていないと思う。
聴覚障害者向けに劇場から貸し出してもらえる台本をみると
「セミの声」などと書かれているが、音を聞いて夏らしさを感じるというのも難しい。
そういったことを差し引いて、わたしがみたもの。かんじたこと。

空虚な。うつろで。
虚無感の広がる。
乾ききった土地。坂を上った行き止まり。
閉塞感。行き場のない想い。
のどの渇き。
精神的な飢え。
渇望。
砂の上にいるキャストたち。
モノトーン。
そして・・・聞こえない私には静謐な。
静謐な舞台。

私はかつて演劇部だったから演じる事、舞台を作っていくことは好きだけど
学芸会レベルだったし、聞こえないので舞台鑑賞はあまりしたことがない。(ガラスの仮面ばりに奇跡の人は見に行ったけど)

なので知識はないけれど。
推しが現れてからは彼の出る舞台は頑張ってみるようになった。
推しである田中圭さんの舞台を見るのはまだ2作目なので
それ以前の彼が舞台でどうあったかは知らない。

昨年から今回までの2作観て感じることは
彼は声を舞台的に発声することはしないなということ。
共演者がわりと声を大きく、前へ前へ会場全体に広げようと意識することが多い中、
彼は治としてそこに「在り」、話す。
なぜそう書くかというと、私はオペラグラス越しに口の形を読んで、
補聴器がかろうじて拾った音とあわせると結構こう言ってるのかも?と分かることがあるのだが、治だけは静謐にぼそぼそとしゃべるので私にはわかりにくいのだ。
声の大きさだけではなく、発声の仕方が根本的に違うのだ。
あるいは舞台向きの発声でないという人もいるだろう。
しかし私はそう思わない。
だってあれほどの勘がいい人がやれないはずがないからだ。あえてそうしているんだろうなと。

彼は役そのもので生きて喋っている。

普通の人間はよほど感情的にならない限り声は張り上げて生活しない。
でも舞台なら。観客に声を届けるために普通の時も張り上げる。
突然歌いもする。

彼は。そうじゃなくて、そのものを生きている。
月人しかり、治しかり。もちろん激昂するときは
私でも(内容はわからないけど)大きいなと思うほど声は大きくなる。
でもそうじゃないときの声は生きている人間のそれだ。
そこが違うなって思う。
生きているからこそ、どんどんその人に見えてきて、
素顔の田中圭そのものは朗らかな人にみえるのに
月人も治もどちらかというと「陰」であり、
でもそれが違和感なくなじんでいる。
役者ってやっぱりすごい。

舞台は夏。セミの声が響いている。
冒頭から治は相当暑がっており、疲れをにじませながら緩慢な動きをする。
少し後では抜け殻のようにゆっくり箱から煙草を出し、吸っている。
ときに寝転がりながらぼんやり煙草を吸う。
ゆっくりとした動きで彼が疲れているらしいこと
そして現世というものに興味がなさそうな、
時が止まっている感じが伝わってくる。
その原因はすぐわかる。我が子を亡くしているのだ。仕事も失っている。
そこから彼の時は止まり、残された妻との生活は崩壊し、
精神的なゆるやかな死が始まっている。
少なくとも私にはそう見えた。
子煩悩な父親だったのかもしれない。
よく笑う人だったのかもしれない。
でも今の彼は究極には何にも関心を持たず静謐にそこにある。

演出は栗山民也さん。
治は冒頭のお弁当の箱をきちんとそろえ、
ビニールもくしゃくしゃにせず輪ゴムできちんと止める。
これだけで治の品の良さ、決して乱暴な人でないこと、几帳面さが
現れているなと思った。
タオルで汗をぬぐい、扇風機の前に陣取り、うちわを仰ぎ、
暑さを示すキャスト。しかしその「暑さ」のアイコンは冒頭のみで
「断水」からはスッと消える。
扇風機、弁当、ビール、麦茶、煙草など小道具を本物で使っているが、麦茶が出るのは冒頭とラストだけで
断水で水が出てこないのに気づかされる。

安佐子・優子母子のお辞儀の角度がしっかりそろっていること。
優子が舞台の端で座ること。
優子が劇場の壁にそっと触れるシーン。
治が2回程する鳥の処理する話の時に叩くしぐさの一定のリズム、向き。
坂や窓から見えるものを見るときの目線。
そこに確かに「坂」が見えた。
そういうところにわたしは演出としての「型」を感じた。
歌舞伎の型のような。特に鳥の処理を話しているシーンの
「バンバンバン」のゆっくり目の速さと向きは歌舞伎のそれを思わせる。
相当気を使って机を叩いている。
初演の際の演出がどんなだったか私は知らないけれど。
これらは今回の演出かなと思う。
また別の会場になった時にどう変化するんだろう。
台本とちょっと変わっている動きもあったので東京でも少しずつ変わるのだろうか。

長崎という土地のもつ二重の閉塞感。
坂が多いのは、すり鉢状の地形だからか。
劇中、立山の家が(望遠鏡越しに)見えたと優子が話すシーンがあるが
本当に見えたかどうかは定かではないが、坂のこっちからはるかあっちの光景が確かに見えそうな地形ではある。
そしてその地形はかつての原爆の被害を広島よりは抑える役目を果たした。
かつて悲劇のあった土地と、造船業のさびれてしまった町。
二重の意味で地形的にも閉塞感を持つ土地、長崎。
そこが舞台なのはきっと意味がある。
優子の原爆に触れるシーンはちょっと圧巻でぞくぞくする。
長崎は雨が多いはずだが、本作では雨が全く降らず
それもまた渇きを増し、閉塞感を強めている。
長崎出身の方が書いたという戯曲。
この閉塞感を書きたかったのかなと。
坂が目の前に迫っているあの感じを絡ませて。

優子役の山田安奈。
最初はお嬢様風なのに、バイト先の先輩をおそらく関係を持ち
(それともぎりぎりでかわしている?)
大人への階段を一気に登っていく。
大人の男を翻弄し、挑発し、嫌な町と吐き捨て、いやなのよと寝転び、治の元妻に啖呵を切り
時に下着姿になったり、煙草すら吸って、表情や体勢をくるくる変え
動の役割を担っている。
これが初めての舞台だなんて。強い意志を持ったその表情をつい追ってしまう。どうしようもない母を持ち、翻弄される悲しさ。やりきれなさ。もがき。
それを体現している。

田中圭演じる治は、感情の起伏がほとんどなく、たまにうっすらと笑ったり
驚いたようにすくむ様子がむしろ印象に残るくらいだ。
時々むっとして大きな声を出すこともあるが、基本は饒舌でもなくぼそぼそしている。
丸めた背中やタンクトップ姿がまさに肉体労働者のそれで、昭和を思わせ、実年齢よりも上に見える。
もともと朗らかな性質の人間がここまで
抑えるっていうのは難しいだろうと思う。
どのように治をおろしていったのだろう。
実はゆっくり緩慢にというのはそうとうしんどい。
田中圭という役者は「受ける」のが絶妙にうまい。
今回も主演だが、周りの「動」のすべてをうけとめて
そのままで「在り」続けていた。
これも結構我慢というか待ちの姿勢が肝心だ。
そして、それでも存在感を失わず、
半ば死んでいる男を逆説的にしっかり生きている。
だからこそ終盤のあのシーンが鮮やかに生きてくる。
その時だけ彼はたしかに生きていて、心からの感情がほとばしる。
私が見たとき、幕が開いたときは少し「演じてる」感があったけれど
直ぐ馴染んでいく。ここは日々演じる中でさらになじんでいくのじゃないだろうか。
猫背で、タンクトップ越しにもわかる程よい肉付きで、隠しようのない鍛えた腕、慣れた手つきで、昭和らしいくしゃくしゃとした箱から煙草を吸う様子は私の性癖にささる
ニコニコ笑っている田中圭も好きだけど
このまた治がみたくなる・・・

淡々とした場面の積み重ねがクライマックスに達した時、演劇の面白さが、むしろ乾くことなく
買ってきた花に水をやったときに花がぐいぐい吸いあげるように
私の五臓六腑にしみわたるのだ。
こうくるのか、こうなるのか。
あっという間に過ぎる2時間が心地よくて。
ある意味気味悪くて。
地味な作品で、大波があるわけではない。
でもむさぼるように私はその舞台を吸収する。

断水の原因はなにか。
水不足?
水道料金を払っていないから止められた?
周りの家々はどういう状況なのか。
でも給水車の話が出ているのを見ると地域的な問題?
一体水なしでどう生活しているのか、
そこからもう治が浮世離れした生活なのがうかがいしれる。

妻が去るシーンでの
「(自分達の)子供はそもそもいたのか?」つぶやくのについては、
妻が去りやすいように仕向けた配慮のようにも、
自分を捨てた妻への復讐のようにも、
本当に精神に異常をきたし、記憶をなくしつつあるようにも見える。そのほうが楽だから。
でも結局妻を「失った」ことに珍しく動揺し、
ぼんやりしてしまい、あの衝撃のラストにつながってしまうのか。

「哀愁しんでれら」ではないけど。
どこで間違えたのか?やっぱり子どもが不注意で死んでしまったところ?

雨が降った時にほとばしる感情が
男や女
伯父と姪
家主と居候
そんなものを一気に乗り越えて
家族に飢えて、でも永遠に手に入れらない
治と優子が運命共同体みたいでこのままどこかへいってしまいそうで
実際はそのことは優子は口に出していて。どこか遠くにいこうって。

暑いのに水がない物理的な乾き
精神的な飢え
それが砂漠のように荒涼と広がって
私的に「夏の砂の上」というタイトルを回収し、
季節は秋だけど、東京で私は「夏の砂漠」を見た。


さいごに。初見の印象をあえて台本はじっくり読んていないので
読み込んだとき、私の見え方もまたかわっていくのだろうか。
そういう意味の飢えも解消されるだろうか。
私は声や音を堪能することはできないので
オペラグラス越しにキャストの口の形を読み
表情をみつめていた。
治のそのゆっくりした表情の発出、役者の整った横顔、煙草の紫雲、
そういったイメージの断片がわたしの頭の中に蓄積し、舞台の余韻を作っていく。
ちょっと特殊な見方をしている、のかもしれない。
















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