「五星戦隊ダイレンジャー」をおよそ30年ぶりに見て考えたこと

特撮にハマったそもそものきっかけは「子供の頃に見ていたヒーローをもう一度見てみたい。」という気持ちだった。
すぐ見られる環境がなかったので、間に平成仮面ライダーを挟んでしまい、ずいぶん遠回りしてしまった。

そして、ついにシリーズを見終えた。
念願が叶ったはずなのに、なんとも言えない気持ちを抱えている。

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以下、多少のネタバレを含みます。

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気力と妖力が光と影の表裏一体の関係で、ゴーマが全員泥人形だったとしたら、ダイレンジャーは一体何と戦っていたのだろうか。

最終話には50年後、彼らの孫がダイレンジャーになるシーンがあり、繰り返される戦いと争いの先にあるのはひとときの平和で、子々孫々未来永劫彼らは永遠に戦いを続けなければならないのかと暗い気持ちになった。

最終話で道士・嘉挧(の霊的な何か)がダイレンジャーたちに「愚かな戦いはやめるんだ」と言うけど、"戦うことが目的でないのなら、なぜダイレンジャーを集めた?お前が集めたんだろ!しかも、愚かって!!"と突っ込まずにはおれなかった。

気力が滅べば妖力も滅び、気力が残れば妖力も残る?
勝負は永久につかない???

本当になんて虚しい戦いなんだ…。
一切救いがないじゃないか…。

ただ、思えば、道士は作中後半から、ダイレンジャーと敵のゴーマ族の中を取り持とうとし始めている。
大神龍の登場により地球の存続そのものが危ぶまれたため(道士の来歴による部分もあるか)ではあるが、この手の物語で指揮官的立場の人物が敵と和平を結ぼうとする展開は珍しいのではなかろうか。

また、道士の真意を計りかねたダイレンジャーたちが詰め寄るシーンがあったが、思い返してみると道士が戦う理由を語るときは「地球の平和を守るためにゴーマと戦う」だったように思う。

この点に気付いたとき、ずっと、正義(ダイレンジャー)と悪(ゴーマ)の対立関係で鑑賞してきていたけれど、道士の考える"地球の平和"とは、相対するものが存在し、拮抗した関係にあること(力が拮抗し続けていること)だったのではないかということに思い至った。
そもそもの前提が違っているのだ。

道士は、彼が考えるところの"地球の平和"である陰陽の気の均衡を守るために、自分と同じ考えを持つ味方を育てようとしていたのだと思うと、むしろ彼の動向は一貫しているのだ(無論、多少の計算違いはあっただろうが)。

最終話で道士は「(気力、妖力)一つの力を二つに分け、永遠に戦い続けることは人間の宿命である」と言うが、これは"ダイレンジャーの戦い=人間の宿命"ともとれる。
そう考えると、彼らの戦いはある意味神話的ですらある。

一度平和になっても、時間が経つにつれて陰陽どちらかの力が強まってしまい、世界の均衡は乱れてしまう。
世界の均衡が乱れた時に新たなダイレンジャー(作中では孫世代)が生まれ、別の誰かが世界を守るために戦わなければならないのだ。

この世界で人間が営みを続ける限り、ダイレンジャーの戦いは終わることがなく、彼らのもたらす平和は束の間のものであり続けるのだろう。
この世界の均衡を守るために戦うのがダイレンジャーなのだから。

人間の営みを続けるため、次世代にバトンを渡していると考えると救いがあるのだが、やはりどことなく虚しさを感じてしまった。

私が子供の時に見ていたヒーローは一度世界を救っただけでは終わらない、永久に戦い続けるヒーローだったということに衝撃を覚え、見終わって2日たった今でも、やるせない気持ちを抱えている。

【追記】
言い換えれば、"ダイレンジャーの戦いが終わる=人類の営みが終わる"になるので、彼らが戦い続ける限り、地球は平和ということなのかもしれない。

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