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もうひとつの御影駅


JRの御影駅はどこ?

普段鉄道にあまり詳しくなく、なおかつこの問いにWebサイト検索などに頼らず即答できる方はどれほどいるだろうか。とりわけ関西に暮らしている人には難問かもしれない。

「阪神、阪急…あれ?そういえばJRにはないね」

という反応が返ってきそうである。

御影は神戸市東灘区にある地名。現在の町名としては阪急御影駅から南西方向、東海道線の線路までの一帯であるが、1950年神戸市に編入されるまでは兵庫県武庫郡御影町で、六甲山の麓から海岸までを町域としていた。花崗岩(御影石)と酒造で古くからよく知られている。神話のような古代伝承も多い。

1874年に、日本で2番目の営業鉄道として建設された官設鉄道大阪-神戸間(後の東海道本線)において、当時の兎原(うばら)郡御影村に駅は設置されなかった。鉄道駅の開業はそれからおよそ30年後の1905年で、阪神電気鉄道の開通に伴い武庫郡御影町内に御影駅が設置された。次いで1920年、町の北側に建設された阪神急行電鉄が御影駅を開業させた。これにより「駅のない省線(国鉄)をはさんで南北に御影駅がある」形が成立して、現在まで続いている。

鼻が突き出る

1907年9月、北海道で十勝線落合-帯広間が開通した。これにより旭川から下富良野(現・富良野)・帯広を経て釧路に至る道東方面の鉄道が完成した。その新線区間(河西郡芽室村)に「佐念頃」(さねんころ)という駅が開設された。

この地名はアイヌ語の「サン=エンコロ」(出ている・鼻)に由来するとされている。本州でもよくある「ハナ」のつく、突起した地形を指す地名と同じで、ここでは十勝川に向かって突き出ている地形を指すと考えられている。

その後1921年、芽室村西側の一部地域が分村して河西郡御影村が発足した。当地で花崗岩の採石が行われていて、当時既にその代名詞となっていた「御影石」にちなんだ命名である。それを受けて国有鉄道(鉄道省)の駅も翌1922年10月「御影」に改称され、現在に至る。すなわちJR御影駅は神戸から遠く離れた、十勝の根室本線にある。

開拓民唯一の楽しみゆえ?

佐念頃から御影への改称理由については「語呂が悪いから」と記されている。ぼかした言い方であるが、ありていに言えば「日本語の性的スラングを連想させるから」である。「さね」は主に江戸時代使われていた人体陰部に関わる俗称で、「実」になぞらえた言い方である。

その説に従えば「さねんころ」は「懇ろ」との掛詞とも受け止められる。アイヌにとってはさぞ迷惑な曲解だったであろうが、開拓民たちの姿に思いを馳せると一方的に「下品」と決めつけられない面がある。

江戸時代末期(19世紀はじめごろ)に蝦夷地警備のため派遣された南部藩・津軽藩の藩士に始まり、1869年に蝦夷地が北海道と命名されて以来一種のブームとなった本州からの入植・開拓事業者の暮らしぶりについては、道内各所で語り継がれている。奥州の武士でさえ次々倒れるほどの苛烈な気候、ヒグマなど大型野生動物との対峙、劣悪な栄養状態により引き起こされる脚気などの疾患、作物を根付かせるため命がけで行われた品種改良…もちろん娯楽などあるはずがなく、日々の過酷な暮らしをわずかに慰めていたのは焚火を囲むささやかな酒席と、そこでの語らいであったに違いない。

若く屈強な男性たちの集団話に”下ネタ”はつきものである。環境的に禁欲を強いられていたはずで、酒が進むと自ずと盛り上がっていっただろう。道内には他にもアイヌ語の音を性的な意味にも通じる日本語にあてはめ、それに適当な漢字をつけてごまかしたと思しき地名がいくつかあるが、「さねんころ」を思いついた人は和歌の素養があったとも想像できる。

”十勝御影”にはならなかった

開拓の時代を過ぎ、集落として定住できる環境が整うと様々な人が暮らすようになる。娯楽や教養にふれる機会も少しずつ増える。佐念頃という地名に対する羞恥心や、品性に欠けるという感覚はその過程で芽生えていったと考えられる。まさに”衣食足りて礼節を知る”。鉄道が開通して佐念頃駅ができると、列車が到着するたびに駅員が「さねんころー、さねんころー」と声を張り上げる。それを聞いて、隠語としての「さね」や「ねんごろ」を思い出して笑いをかみ殺す乗客が現れてもおかしくはない。逆に村の人が近隣の町まで出向いて「芽室村佐念頃」と住所を告げるとギョッとした反応をされる場面も起こり得ただろう。

芽室村からの分離話は渡りに船で、地名を改めるのならば品性よろしい名前がいい、うちは花崗岩の切り出しを始めて、石材として評判がよい、それならば御影石にあやかって御影にしようという思考過程だったと推察される。

村名は「河西郡御影村」となったが、国有鉄道の駅名制定には「既存の駅との名称重複を避けるため、後から遠隔地に作られた駅については旧国名もしくは地域名・支庁名を冠して命名する」という原則がある。それでも「十勝御影駅」としなかったのは、阪神電気鉄道や阪神急行電鉄が私設鉄道であり、国有鉄道の駅としては兵庫県武庫郡御影町の駅と重複にならないからである。

さらに、当時の阪神電気鉄道や阪神急行電鉄は法規上、路面電車と同じ”軌道線”と位置づけられていた。阪神電気鉄道が事業を始める際、官設鉄道(東海道本線)とほぼ全区間で並行するため、私設鉄道法に基づく免許は認可してもらえそうにない、それならば一部分を道路上の軌道にする建設計画を提出して、軌道法に基づく免許を申請しようと考えたことに由来する。阪神が前例を作ったことにより、京王・京浜(京急)・京阪・大軌(近鉄)・阪急などがこの方法で電気鉄道を建設する道が開かれた。

この知恵は内務省の偉い人が出したそうで、ある意味茶番だったが、”路面電車の特例”と位置づけられたことにより、阪急西宮北口の神戸線・今津線平面交差など、私設鉄道法の鉄道では許可されない施設の建設が可能になった。阪神本線は1977年末、阪急神戸線は1978年3月まで法律上は”軌道”の扱いとされていて、都電荒川線(王子電軌)などと同じく「ほとんど専用軌道の路面電車」だった。阪神は本線とは別に国道2号線上を走る”本物の路面電車”阪神国道線を運営していた時期があり(1927~1975年)、当時の現場職員でも「実は本線も法律上は路面電車」と気づいていなかった人がいたのではなかろうか。

国有鉄道御影駅に話を戻すと、佐念頃から改称する時点において、阪神や阪急の御影は駅というよりも”電停”という位置づけであり、わざわざ「十勝」を冠するまでもなかった。

歴史のあや

冒頭で「1874年の大阪-神戸間官設鉄道建設において、兎原郡御影村に駅は設置されなかった」と記したが、計画段階では大阪・神崎(尼崎)・西ノ宮・御影・三ノ宮・神戸の停車場設置が予定されていた。しかし御影村の酒造業者たちが強硬に反対したため、政府は御影を住吉に変更した上で開通させたと伝えられている。

全国各地に伝わる、いわゆる”鉄道忌避伝説”の多くは後世の創作で、地形上の問題や当時の技術では建設困難など他の理由があるという研究もなされているが、御影に関しては事実だった気配が濃厚である。酒づくりに用いる水に、鉄など金属分の混入は厳禁とされている。兵庫開港の報を聞いて見に行った酒造業者が入港する黒船を目の当たりにして「これはえらいこっちゃ」と腰を抜かすほど慌てたことは想像に難くない。数年過ぎて、新政府の役人が「陸蒸気の停車場を作りたい」と訪問してきたら「とんでもない。酒がまずうなりますさかい、ご堪忍を。お引き取りください。」と追い返したのであろう。

実際に鉄道ができてみると酒の品質にはほとんど影響を及ぼさず、住吉が御影に代わって栄える契機になった。鉄道建設はほぼ前例がなく、指導した役人も酒造業者たちも暗中模索で何が起こるかわからない不安があっただろうが、もしここで御影駅設置の承諾が得られて、東海道本線の駅になっていたらその後の歴史はかなり変わっただろう。「十勝御影駅」のみならず、六甲道駅(1934年開業)、神戸新交通六甲アイランド線(1990年開業)にも影響を及ぼしたはずである。神戸市東灘区は”神戸市御影区”になっていただろうか。

”御影駅”を巡るエピソードは様々な示唆に富んでいる。

・羞恥やタブーとされるものは時代や環境により移り変わる
・生活環境が充足されると不満や要望は次のステップに進む
・後世を生きる人が、その文化規範で会得した価値観に基づいて先人たちの文化を取り上げることの危うさ
・良いイメージの言葉を使う地名への憧憬
・法の抜け道と先例主義
・これまで経験がない事態に対する防衛心理
・現状は歴史の様々な選択の上に成り立っている

など、人の世の営みの常が浮き彫りになる。本例では日本語で品のないスラングを連想させる名前だからという”大義”が地名改称の推進力となったが、現代でも「クボ」「ヌマ」「タニ」など低地を示す意味合いでつけられた地名が不動産業者の意向などで”キラキラ地名”に変えられる事例が都市近郊で多くみられる。不動産業者がマンションなどの物件に所在町名ではなく近傍(とまでいえないケースさえある)の駅名をつけたがるのも同じ理由からだろう。

御影石の駅

2019年6月、JR御影駅を訪れた。

現在は上川郡清水町御影

はつ夏の爽やかな風が吹き抜ける心地よい日だった。じめじめした掛詞よりも港町に思いを馳せるほうが確かに似合う。

駅舎正面の標示

鉄筋コンクリート造りの平屋建て。古色蒼然とした木造駅舎が人気を集める中、かえって貴重な建物である。今はJRが用意した白い文字板の駅名表示が正面に掲げられているが、さいきの駅舎訪問サイトなどによれば、以前は真紅の文字板が駅舎の上に掲げられていたという。それこそ神戸駅を思わせる。その時代に来てみたかった。

中は写真の通り広い空間。ほとんど何も置かれていない。

駅舎内部 かつてはストーブもあっただろうか

現駅舎は1967年に建てられたという。いかにも高度成長期の国鉄の駅というたたずまい。写真左側は出札窓口、右側の一段低いカウンターは小荷物取扱い窓口だったのだろう。

小荷物扱いカウンター

よく見ればカウンターや柱に御影石が使われている。出札窓口の上にはステンレスの板が取り付けられていて、緑色の国鉄フォント「1」「2」番号標まである。

懐かしい”国鉄のきっぷうりば”

御影は急行停車駅でもなければ、みどりの窓口設置駅でもない。昔の時刻表を参照すると、札幌方面の直通は23時30分前後発の寝台車つき普通列車「からまつ」小樽行きのみ。それを勘案すれば破格の扱いともいえる立派な駅舎である。改築当時、集落一番の自慢だったであろうと容易に想像がつく。

乗車券やお金が行き交ったカウンターには歳月が刻まれている

記録によれば1984年11月末限りで無人化されたという。きれいに保存されているのは何よりだが、ややもったいなさも感じる。1970年代・1980年代を舞台にした映画やドラマのロケに貸し出してみてはいかがだろうか。その時代を好んで取り上げる割にはセットがお粗末だったり、もっと後の時代にならないと出現しないはずのものがしれっと映っていたりが後を絶たないから。文化財指定の対象にはなりそうにないが、こういった地味なリアリティを持つ建築物もまた、歴史の大切な証拠となるのではないだろうか。

「いい日旅立ち」キャンペーンポスターや改札口上列車案内札などの
小道具を使えばすぐに往時を再現できそう

国鉄形式駅名標を知りませんか

御影駅にはかつて駅員が入って改札作業をしていたボックス(?、正式名称不明)も残されている。これも御影石製。

今や貴重品

列車の本数が少ないので、東京近郊の駅員のようにハサミを常にカチカチ鳴らす習慣は多分なかっただろう。列車の到着時刻が近づくと「ただいまから下り釧路行きの改札を始めます」などと案内して、丁寧にハサミを入れていた風景が目に浮かぶ。

これだけ国鉄の面影を色濃く残していながら、駅名標だけJR仕様になっているのはテンションが下がる。サッポロビール広告つきの黄色枠ホーロー駅名板のみが往時をしのばせる。

北海道ではおなじみ

以前よりネットや書籍で、1980年代に撮影された北海道の国鉄形式駅名標写真(所在市町村表記つき)をリサーチしている。いくつかの貴重な資料が見つかり、アップしてくれた方には感謝するが、小樽築港・北広島(札幌郡広島町)・御影は未だ見つかっていない。

十勝地方はかつて幸福駅のある広尾線や士幌線を抱えていて、1980年代ローカル線ブームの頃はかなりの人が駅の様子を写真に収めている。この2路線については国鉄末期に整理対象とされたことも相まって、駅名標写真がほぼ全駅で記録されている。対して根室本線の駅は「あって当たり前」感覚だったのだろうか、意外なほど記録が少ない。前述の「さいきの駅舎訪問」作者の西崎さんも御影駅来訪は1990年で、既にJR様式の駅名標に取り替えられた後だった。国鉄の時に御影の駅名標を撮影した方がいらっしゃらないか、結構本気で探している。

復活した2番線

ホームに入ると、どこか変わった気配を感じる。

御影駅ホーム

駅舎側の1番線は古くからのホームを舗装しなおした跡がみられる。かなり新しい筒型のこ線橋があり、少し離れた位置に後から作られたとおぼしき2番線が置かれている。

この駅はもともと2面3線で列車行き違い可能だったが、1986年10月に奥のホームが撤去されて1面1線構造に格下げされた。しかし4年後の1990年に行き違い設備を復活させることになり、新たに作り直したという。今の言葉を使えば断捨離の失敗だろうか。通過する特急列車の増発対応とみられ、JRにも景気のよい時代があったとしみじみ思う。

こ線橋から滝川方面を望む 左の空き地が旧ホームか

御影神社

次の列車まであまり時間がないが、集落を少し歩いてみた。晴天に恵まれ、よい風が吹き抜ける日なのにほとんど人影がみられない。

駅の近くに御影神社があった。

御影神社本殿

まだ歴史があまり刻まれていない。1988年改築の鉄筋コンクリート造りという。参道入口脇には神社沿革を記した御影石の碑が建てられている。

御影神社沿革

これによれば1908年(駅開設翌年)地主から寄付を受けた土地に、その翌年初代本殿を建てたという。1922年の御影村発足に伴い御影神社と改称した。ということはもともと別の名前だったはずである。

改称前(1915年)奉納の手水鉢

北海道の小さな集落や、かつて観光地として栄えた町の中には正直くたびれた印象を受けるところも少なくないが、御影は町の隅々までとても清潔に保たれている。地元に暮らす人たちがこまめに手入れしているとうかがえ、好感が持てた。

そろそろ帰りの汽車が来る。駅へ戻ろう。

駅名標の枠が高いのは積雪を見越しての設計と思われる




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