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あてなる甘葛

ある夏の日、車折神社に出かけた。

嵐電停留所より

古くからの石造り玉垣のほとんどに「金壱百圓」と記されている。戦前に寄進されたものだろう。

境内には「清少納言社」という小さな祠がある。

清少納言社

この神社は清原頼業(きよはらのよりなり、1122-1189)を祭神とする。彼は清原広澄(934-1009)を始祖とする「広澄流清原氏」の一員で、清原元輔や清少納言を輩出した「皇別清原氏」とは異なる一族と考えられている。しかし神社では「同族」として清少納言を祀っている。

清少納言人気にあやかろうとしたか

広澄は1004年に清原姓を名乗ったと伝えられている。まさしく一条朝の時代。定子皇后の崩御から3~4年後で、清少納言が宮使えを辞してから、まだそれほど過ぎていない時期にあたる。全くの偶然か、それとも何らかの意図があったのか。当時健在だった清少納言の兄たちは承知していたのか。

社務所では、清少納言社の「才色兼備お守り」を販売している。本人はあまり容姿に自信がなかったとされているゆえ、天で苦笑しているかもしれない。「麗しきは宮なり、われに非ず」と。

才色兼備の人にお仕えできるご利益があるのかも

車折神社では「芸能神社」がとりわけ有名である。アマノウズメを祭神として、芸能関係にご利益があるとされている。境内には朱塗りの玉垣がずらりと並ぶ。おそらく数千本はあるだろう。俳優、歌手、芸人、声優、落語家、お稽古ごとの師匠、写真家、作家…ありとあらゆるジャンルの人たちが奉納している。クラシック音楽関係者の名前はさすがに見かけないが、ロック系有名ミュージシャンの名前はちらほら見受けられる。芸能史上に名前が残るだろう大スターも、コンサートを開けば数万人を動員できる人気アイドルも、地道な活動をしている人たちも、この玉垣では全て平等に扱われている。

芸能神社奉納者氏名

世の中には、自分の容姿や声、たたずまいを使い、歌や演技の才覚で自らを表現しようと志し、それを生業とする人がこれほど多いとは。統計の数字を見るだけでは決して得られない実感である。もちろん、この神社にお参りした人は芸能に携わる人口のごく一部に過ぎない。

鳥居や玉垣の朱色は、奉納されてから時間が経つにつれて風雨や紫外線により色あせていくが、ここでは全て鮮やかな色合いが保たれている。神社の人がこまめに手入れしているのだろう。

芸能神社は戦後の1957年に開かれたという。いわゆる邦画の全盛期で、近くには大手映画会社の撮影所があり、大部屋俳優たちが大勢暮らしていた。

それを思うと、車折神社のスタンスが何となく推察される。神社の生き残り策として生み出されたアイデアではないか。歴史的にも貴重な大手社寺が密集する京都の街にあって、中小の神社が生き残るためには、他にはない特色を出したい。この地域は芸能関係者が多いので、彼らにとってのご利益をアピールすれば参拝者を呼べるだろうという思惑があっただろうか。神社仏閣につきものの堅苦しさや教条主義的な面をなるべく排して、親しみやすさを前面に出す方針だろう。

以前、大阪や兵庫の「南朝方」神社をいくつか回った。そこでは南朝に尽くした武士を神として祀るというよりも、足利将軍家の糾弾や、全体主義・目上絶対服従思想を柱とした、たかだか明治生まれの”伝統的価値観”の啓蒙のほうにウェイトが置かれているようで、何ともやりきれない思いを抱いた。ルサンチマンを礎とする神社のご利益って何だろう?

対して車折神社はあくまでも前向き。時流のニーズを上手にとらえる才覚もあり、はるかに好感を覚える。

懐かしいモーター音を出す嵐電の車両
西大路三条にて

嵐電で車折神社を後にする。途中、江ノ島電鉄の色に塗られた車両とすれ違った。有名観光地域で営業する、一部道路併用軌道を有する路線という縁で提携を結んでいるという。

西大路三条で下車。科学機器メーカー「島津製作所」の本社が目の前にある。京都電子、任天堂など、京都は精密機器の町でもある。

ここから三条通りを東へ歩く。二条で買い物をして、御池通りをさらに歩く。交差点ごとに、南北方向にクロスする小さな街路の説明板が設置されている。ほとんどの通りで読み方を間違えて覚えていたと気づかされる。

この一帯は1590年代、豊臣秀吉の時代に街並みが整備されたという。長年の荒廃をリセットして街を作り直す事業は、日本の中世の終焉でもあっただろう。タワービルだらけになった東京も、いずれそのような時が来るかもしれない。

次の目的地は烏丸御池のNHK京都放送局。1階ロビー「8Kプラザ」で、「光る君へ」出演者パネルが展示されている。ストーリーは何とも残念な展開になってしまったが、パネルは今しか見られないし、俳優さんたちの麗しいお姿は記憶に留めておきたい。

主上のご尊顔はここでのみ拝見できる。定子さまは現代人に紛れると、かなり小柄でいらっしゃる。

一条帝(右)と中宮定子
何人たりとも引き離せない「平安最強カップル」

パネルは他に清少納言、粟田殿、右大臣兼家、女院(東三条院)、陰陽師が展示されている。

ロビー隅の「日本一大きなどーもくん」の脇にはショーケースが設置されている。中には高さ20cm、幅10cm程度のアクリル製スタンドが飾られている。アクリルスタンドは近年人気アイドルやキャラクターグッズとして汎用されていて、いわゆる”推し活”では「アクスタ」と呼ばれているらしい。

日本一大きいどーもくんと主上・中宮
左から大納言公任・儀同三司・右大臣兼家・関白殿・東三条院・
粟田殿・越前守為時・右衛門佐宣孝
無名といふ琵琶の御琴を、うへの持てわたらせたまへるを(ピンボケご容赦)

アクリルスタンドはもっといろいろな出演者のものを作ったらウケそう。実資とか、桐子とか、斉信とか、直秀とか、明子女王とか、小麻呂とか。

ロビーの壁面には8Kハイビジョン用の大きなパネルが設置されていて、クラシックコンサートを放送していたが、年輩の人がひとり聞いているのみで、とても静かな空間だった。

この先予定されている展開を思うと、ドラマ関連展示に出向くのはおそらく今回が最後となるだろう。半年近く楽しませてくれてありがとう。

空腹を感じてきたので、近くにある老舗喫茶店「イノダコーヒ」で昼食を取る。和服を上品に着こなしている年輩二人連れが先に並んでいて緊張したが、お店の人はとても親切で、感じよく接客してくれた。春に鳥戸野陵を参拝した時に続いて、オーバーツーリズムで辟易している町とは思えないほど清々しい印象の人たちに出会えた。

お客さんでいっぱいゆえ写真は遠慮したが、店内インテリアは1960年代そのままのふんいき。近年動画サイトなどでよく紹介されている「昭和の高級喫茶店」である。軽井沢の万平ホテルのカフェテラスを何となく思い起こす。壁面には昔懐かしいブラウン管の大型テレビがデンと置かれている。さすがに今は使っていない模様。そういえばあの時代のカラーテレビも京都製が多く、高雄とか嵯峨とか名前をつけて売り出していた。ここのテレビは東芝で、京都生まれではないのが若干惜しいが、残しているだけで十分貴重である。

イノダコーヒ本店

近鉄の急行に乗車して、終点近鉄奈良で下車。地上に出て、観光客向けの商店街脇の細い路地に入り、小さなカフェを目指す。そこには『枕草子』の「あてなるもの(上品なもの)削り氷にあまづら入れて、新しき金まりに入れたる。」を再現したメニューがある。

あてなるメニュー

あまづら(甘葛煎)は、奈良時代から食用に供されていた、日本最古の甘味料と言われている。「光る君へ」では、子役の主上が好きなものを聞かれて

「母上(東三条院)、椿餅、松虫」

と元気よく答える場面があったが、平安時代の椿餅も甘葛煎で作られている。

「甘葛事始」のホームページによれば、奈良女子大学で2011年から、蔦の樹液を用いた甘葛煎再現実験を始めたという。2019年以降は市内の神社や飲食店の協力を得て、現代にも通じる甘味料としての再現を目指している。2023年10月に「甘葛シロップ」が商品化された。すなわち今年は2シーズン目にあたり、盛夏期のかき氷としては初めてお目見えすることになる。とはいえ、天然の甘葛は蔦の樹液からごく少量しか取れないので、今のところ市販品は近似成分で作っているという。いずれはそこらにある「もじゃハウス」の蔦からも甘葛煎が取れるようになるのだろうか?

カフェは2階建ての小さな家屋の2階で営業している。窓際に面白いプレートが飾られていた。路線バスの停留所か何かで使われていたものだろうか。

「ぺきんおわりまち」ではありません

この駅を知っていれば、難しくも何ともない。

京終駅(1989年8月)

甘葛削り氷の金椀は直径10cm弱で、想像よりもやや小さかった。現代のかき氷から酸味を抜いた感じ。果物系の甘酸っぱさとも、野菜系のデンプン甘味とも一線を画している。つけ合わせの「索餅」はほどよく温かく、揚げパンを思い起こす味わいで、すばらしくおいしかった。ごちそうさまでした。

店を辞して、強い西日の中を奈良公園に向かう。暑い。時を越えてきたような修学旅行の一団とすれ違い、鹿がひしめく一帯を越えて、南大門をくぐり、大仏殿脇を歩き、二月堂裏の参道に至る。お目当ては蛍である。

二月堂裏の小川にゲンジボタルが生息しているという情報をつかみ、今回最後の目的地に定めた。ずいぶん長く生きてきたが、蛍が光る姿にはまだお目にかかれていない。その昔、蛍名所とされている土地に出かけたこともあったが、空振りだった。Googleマップなどない時代で、真っ暗な帰り道はさすがに怖かった。徒労感しか覚えていない。

SNSによれば、5月末から既に飛び始めているという。この日は湿度が低く、昼間歩いて見て回るには好都合だったが、蛍は湿度が高く蒸し暑い日に飛びやすいと聞いている。果たしてどれほど見られるだろうか。

大仏殿近くは工事のフェンスが張られている。それが尽きるあたりから、「大仏蛍を守る会」が設置した立ち入り制限ロープが道路脇に現れる。小川にかかる橋の上では、三脚をセットして日暮れを待つ人がひとりいた。

今は一年で最も日暮れが遅い時期。平日だが、近所の昼間フルタイム勤務者でも仕事帰りに立ち寄れる時間帯ゆえか、暗くなるにつれて足を止める人が増えてきた。20人ぐらいになった頃、暗闇となった小川周辺の茂みで、小さな光が舞い始めた。

白く強い光を放ったかと思えばすぐ消えて、また灯る。オレンジ系の光しかなかった時代の人たちにとって、どれほど神秘的な現象だったろうか。

20時すぎると光の数が一気に増えてきた。30匹くらい飛んでいただろうか。闇の中突然物音が響き、鹿が3頭走り抜けていった。

カメラの用意をしてきたが、暗くなるとフォーカス合わせに難渋する。ひとりならば懐中電灯を素早く使って調整するところだが、スローシャッターで撮影している人が何人も構えている状態ではそれも無理。ボケボケの写真しか得られなかった。

蛍は人工の光を嫌うというが、街灯近くまで飛んできて、水面を一周する個体もいた。

川面にオーロラ色の光跡を残した

気がつけばまもなく21時。大仏殿横の道を歩きながら、スコットランドの古いメロディー"Auld Lang Syne"の冒頭に「蛍の光」という語句をあてた先人や、強い白色光を出す照明に「蛍光灯」と名付けた人は凄いと、改めて思った。








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