第二夜
こんな夢を見ました。
私はあつうみが崎というところにいました。かつて燃え盛る山々が地を焦がしたところ。燃え尽きた後も地中に残った熱源によって熱泉が吹き出していた、そんな熱い海があるところ。言葉に出来ない何かを抱えたままふらふらと行き着く先としては、どこか重なる思いがある、そんなところ。夢の中でその場所へとたどり着いたのは、夕刻も深く夜に差し掛かった頃合いのことでした。
空は既に深い紺色をしていました。薄闇の中で、けれど光のない建物ばかりがより黒く仄暗く立ち現れて、紺色だけが浮き上がって見えました。月のある部分にのみ雲が掛かり、それがより一層空の紺色の色彩を強めていました。駅前にある足浴をする場所も、時節の問題か湯が張られることもありませんでした。そうでありながらそこに集っていた人々は、手持ち無沙汰であるのか湯が張られるべき空洞に足を入れて歓談しておりました。もうそこには何も無いのだから――私は喉元まで出掛かった言葉を、けれど言葉として外に生み出すことはなく、歓楽街の始めへと歩いていくのでした。
『わたしは湯に入ることが好きでした。より厳密な言い方をするのであれば、銭湯等を始めとした外湯に入ることが好きでした。誰のものとも言えない空間で、知らないシャンプーの匂いを浴び、わたしという人間を解体して誰であるとも言えない状態になるのが好きだったのです。そのようにして思うと、渋谷というサイケデリックな街の本屋の片隅で、尾崎紅葉の描き出した書籍である『金色夜叉』という場にそぐわないものを手にしていた貴方を一目見て惹かれたのも当然のことだったのかもしれません』
夕刻を過ぎたということもあり、店屋の多くも店先の販売物を仕舞い、入口の扉を鎖籠めておりました。商店街に並ぶ店々もここの所いくつも立ち代わりがあったとは聞きますが、扉を閉めてしまえばどこも同じ。店から目を逸らすと、路地裏に連なりどくどくと脈打つパイプ管が、音によりその存在を雄弁に示しておきながら、何処に何が送られるのかも語らないまま仄暗く佇んでいました。商店街の中程にある手湯は流れる湯もなく、ただその空洞を黒々としたものとして映していました。見るものが一様に何も自分に齎さないというのならば、それは何もないのと同じことなのでしょう。私は商店街を抜け、熱海銀座と呼ばれる場所へと下っていました。
『わたしといういきものは変化していたにも関わらず、貴方といういきものには何の変化もありませんでした。こう見えて私は人を見る能力、いえ、人がどのような状態であるのかというものを具に見出す術を少しは有していたと思うのです。人間は周りの環境にあわせて変わっていくいきものだ、などと。そんな偉そうなことをいうつもりもないですけれど、けれどあなたがわたしのことを見てはいなかったという証左にはなるのではないでしょうか』
山際であるからか酷く曲がりくねった道。そしてどこへともなく伸びていく上りの階段に、下りの階段。薄闇の奥には、それが何であるかよく分からない建物とそれをぼんやりと照らす複数の灯りがありました。ふと視界に歪な白い隙間が生じ、はたと空を見上げると、黒い格子に閉じ込められた電灯の明かりが、照らすものを分割するかのように区切られた光を放っています。電灯の根元には、今の空よりも少しだけ薄い色をした菫が惑うように揺れ動いていました。
『貴方という世界にどこまでも引き込まれてしまったからこそ、気づいてしまったことがありました。貴方はある時から常に誰かの幻影を追っていました。それはきっとわたしではあるけれど、どこか絶望的に今の私から剥離した幻影。他が忘れられずと、言葉ならでもそのような思いを持つあなたに今の私が介在する余地があったのでしょうか。どこまでも変わりすぎない貴方とともにいるのは、変わっていくわたしを一つの檻の中に落とし込んで変わらないものにすることにほかならないのですから』
熱海という街において最も大きな曲がり角に差し掛かります。幅の広いガードレールに阻まれてはいましたが、その向こうには窓の形として刳り抜かれた白々と細かい明かりたちが散らばっていました。止まれという看板が自動車のヘッドライトを受けて毒々しく鈍く赤く光っています。カーブミラーが二つ、互いを映さない状態のまま背中合わせに結合していました。私の前に存在していたガードレールが光に照らされ、わたしの影に通せんぼのような影を落としています。そのような景色を、どこからともなく立ち昇る蒸気の煙が薄らぼんやりと揺らめかせていました。私は更に下りへと歩を進め、少し暗い色をした街の方へと移動します。
『熱海という街は裏と表がある街だ、と言ったのは誰だったでしょうか。昼と夜とで見せる姿が異なり、行く先々によって最も光を放っている箇所が違っている。それは実際にその街を歩いてみなければ分からず、歩いたとしてもその全てを俯瞰的に見ることは難しい。薄闇の中には店先の橙色の明かりが籠っていました。行先たちを示す看板の群れは何処かある場所を指し示しており、けれどその指し示した場所自体は何の視覚的情報も齎さない暗闇の状態で在りました。それはまるで誰かと誰かの関係のようだったと、そんなことを思いながら熱海銀座と呼ばれる地帯を抜けていきます』
潮の香りが強くなるのを感じました。碁盤の目状に細かく分岐していた道も今は収束して、たった一つだけになっていました。海辺に出るともうそこに人の気配はなく、ただ鳥が数羽行き場を失ったように中空を漂っているだけでした。水際に目を遣ると、空と海の境界線は一層深く、濁りを帯びていました。
私は海岸へと続く階段を上り、そうして今来た道を振り返りました。坂の街とも呼び慕われることのある地である熱海。観光紹介の写真であるような、山に多くの建物たちが群生している姿が、夜の帳とそれを刳り抜くような光の点の群れによって示されていました。
離れているときの方が、逆説的にあるものに対する理解が深まる。見る場所によっては、その対象のすべてを解き明かすことが出来ない。ただそれだけのことではあったとしても、なんてどうしようもなくて、報われないことなのでしょう。
『貴方と私の関係が途絶えてから一度だけ、私は貴方の姿を街で見ました。かつて何処かの書で語られた二人の様に、お互いに知らない顔をして別れましたが、貴方の唇がある形に動いたのは私の見間違えでしたでしょうか。「夢だ夢だ」と。その後に続くのはきっと「長い夢を見たのだ」という文言。貴方が私と出会ったときに手にしていた書物の中の言葉が、現実として立ち現れてくることになるとは終ぞ思いもしませんでした。ああ、けれど。それはきっと別離の証であり、貴方と私という人間が区切られた流転するものであるということを示す証左にはなるのでしょう』
薄く薄く希釈された思いは、もはやどうにもならず、そうしてただ在りし場所のみを寄る辺として漂い続けることでしょう。だからこそ、この話はもう終わりなのです。
月に掛かる雲は最早霧散し、時が経ちより一層濃紺になった空を優しく照らしていました。そうそう、せっかくこれで最後なのだから、この言葉を形として伝えても罰は当たらないことでしょう。これが貴方の前で見せる最後の新しいわたしになるでしょうから。
ああ、わたしは貴方のことがきらいでした。
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