構造から気持ち悪さが生まれるプロデュースの話

もうかなり前のことになりますが、"僕が見たかった青空"というグループがデビューしたとき、そのグループ名の由来を知った私に生まれた感想は「げげげ……」でした。
僕青の"僕"がプロデュース側の主語だったからです。

時々問題になることですが、CMやMV、ドラマ、映画、舞台などなどで、なんらかのコンプライアンス的な問題(これはかなり大雑把な括りですが)が発生する場合、関わった人々がそれぞれのベクトルでそれに対しての責任を追求されることがあります。そのベクトルの違いはいったいどこから生まれるのか、どう人々によって区別されているのか、そんな疑問から今日の話を始めさせてください。


なぜ、こんなことを考え始めたかといいますと、個人的に動向を気にしている櫻坂46の新曲「愛し合いなさい」を聴いたからなのでした。
少々話題になっていることなのですが、この曲には以下のような歌詞が存在します。

"このままじゃ 僕らの国は滅びる
去年より出生率下がるだろう"

"面倒くさがらずに関わってごらんよ
そのうち気づくさ 人は孤独が苦手なんだ
錯覚でもいい愛しなさい"

これが、異性愛のみを想定して結婚出産などを無責任に肯定しているように感じられるだとか、性的なことをあまりにも安易に連想させるような直接的な内容であるとか、そう言ったことが主に問題に思われているようです。

しかし、私は思いました。
これがもし、とあるバンドやシンガーソングライターが自分たちで作って自分たちで歌っている曲であったなら、そこまで問題には思われなかったのでは無いだろうか。
つまり、より問題なのは歌詞そのものよりも構造なのではないかと考え始めたのです。

構造というのは、誤解を恐れず極端な言い方をすれば、彼女たちはその曲を"歌わさせられている"という構造のことです。
こういった、大もとの製作者(発案者)と矢面に立つ人間が全く別の人間になるような構造が結果的に生まれてしまう媒体はこの世に数多く存在します。先程上げたCM、ドラマ、舞台、映画、MVなどなど……
(もちろん、構造的にはそうでも参加する以上それなりの主体性は求められるべきです。それ故時として責任を追求されてしまうのですが)

この構造をもつ作品群に大まかに大まかに2つの方向性を設定するとします。
「フィクション↔︎リアル」です。これは単純に内容的なことのみではなく、参加する(もっと言うと矢面に立つ)人が持ちうる性質のことも意味します。
例えば、同じドラマという媒体でも史実や事実を元にした思想を持った作品と、完全にエンタメを目的とするフィクションとでは出演者の持つ性質は異なります。後者より前者の方が、より本人の持つ思想などが役に反映されているとか、作品そのものの思想に賛同しているのだ、という印象を視聴者は感じ易くなります。
舞台などでも、本人に近いような役柄のかつ現実的な内容の作品と、現実からかけ離れたファンタジーとでは、より前者の方が演者本人と虚構のキャラクターとの境目が曖昧で区別をつけにくくなると思います。
さらに言うと、タレントが本人として発言するバラエティはもちろん台本か現実かの境界はさらに曖昧になりますし、ラジオなどもそうです。本人役として出演するドラマなどもありますね。

結局のところ何が言いたいかと言いますと、"矢面に立つ人"と"製作者(発案者)"との関係性のように、"アイドル"と"作詞家"という関係の中にも上記の2つの方向性が存在するのではということです。
櫻坂46の話に戻りますが、実際SNSなどではこれ以前にも秋元氏はかなり際どい歌詞の内容の曲を生み出しているし、今更取り沙汰することでもないという意見が散見されました。(「危なっかしい計画」や「月曜日の朝スカートを切られた」などなど)
しかし、これまでの曲と今回の曲との間には大きな違いがあると、わたしは考えました。それが二つの方向性どちらに寄っているかということです。
(全ての曲を網羅的に把握できているわけではないので、例に漏れるような曲があるやもしれませんが)「愛し合いなさい」以前にやや問題になった際どい歌詞の曲はほぼ全て"わたし"もしくは"僕"という主人公たる個人が設定された曲でした。ある主人公がモノローグ的に心のうちを吐露していく形式の歌詞です。
例えば、「月曜日の朝スカートを切られた」

"よく晴れてた朝
スカートを切られた
無視された社会の隅に存在する孤独
自分はここにいる
それだけ伝えたい
したり顔で
あんたは私の何を知る?"

また、「危なっかしい計画」も抜粋してみます。

"大人しいコだねなんて言われるけど
そんな簡単にわからないでしょ?
外見は本性を隠すもの
こんな私がどんな女の子かお楽しみに"

こういった歌詞にある主語が結局のところ、歌唱を担う彼女たちに帰結していくにしろ、これらの楽曲にはキャラクター性とフィクション性があると思います。
ですが、「愛し合いなさい」は仮に"僕"という主語は設定されているものの、受け手に対する問いかけや社会に対しての主張が多く、個人のモノローグやフィクションというより、応援ソングなどによく見られるような聞き手を意識したリアル寄りの構造になっているのです。(この曲とやや似た構造の曲をもう一つ見つけました。乃木坂46の「女はひとりじゃ眠れない」です。こちらも過去に炎上していました。)

楽曲からフィクション性やキャラクター性を抜いていくとどうなるかというと、よりアイドル本人が歌っているのだという感じが強くなります。うまく表現できていない感じがするので補足するのですが、これは例えばももいろクローバーZの「行くぜっ!怪盗少女」とか、乃木坂46の「乃木坂の詩」とか、あと「サインはB」でしたりとかを想像するとわかりやすいと思います。もちろん件の楽曲はここまで本人たち感が強いわけではないのですが、この方向性に向かうと"あ、なるほどあなた方そういうテーマのグループなのね"と判断され易くなるということだと思います。

つまりです。この「愛し合いなさい」という楽曲のなんとも言えない心地悪さがどこから来ているのかというと

①フィクション性やキャラクター性がない、楽曲全体の方向性
②ある意味"歌わさせられている"という構造

この2つではないでしょうか。
もっと言うと①が②のような構造をより際立たせてしまっていて、それがさらに悪い印象を与える原因になっているように感じます。

パッと見ると、作詞家のおじさん(秋元先生は尋常じゃない量の歌詞を常日頃生み出し、時には鋭いフレーズで心を刺す、普通にめっちゃすごい人だと思っておりますので本当に忍びないのですが、便宜上そう呼ばせてください)が若い女の子に思想強い歌を歌わせている、的な図に見えてしまうわけです。
これはスナックやガールズバーなどでおじ様などが(これ以外にもそんな場面はきっと存在するに違いありませんが)、時代錯誤の今ではほぼセクハラに近い曲を女の子に歌わせるような図に限りなく近いものを感じてしまう人もいるやもしれません…。なんと…。


◆一応のまとめ
ここまで、構造によって生まれる気持ち悪さについて考えてきましたが、これはもちろん男性→女性の構図のみに起こる問題ではないと思います。どんな性別間でも関係値でもその点を留意しようと言う前提は必要なのではないでしょうか。自分1人だけでやっているのではないという、責任感と倫理観を前提に持つということです。
他人のことを自分のことのように想像して慮るのは本当に、本当に難しいです。想像しても間違っていることばかりですし疲れます、でもやってみることをやめてはいけないのだと思います。それをこの問題を考えながら切実に感じました。

ですが、コンプライアンス的なことに昨今の世間全体があまりにも過敏であることも問題ですね。これについてもまた熟考したいなと思っています。

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