リストカットと自殺未遂

人間が自分の心を守ろうとする防衛反応は凄いと思う。
私は中学時代の記憶が殆どありません。同級生の名前も担任の名前もただのひとり覚えていません。
いや二人だけ名前を鮮明に覚えています。そのうちの一人は生まれて初めて私の逆鱗に触れた少女です。
中学校に行き始めたころではなかったかと思うがはっきりした時期は憶えていません。
私の隣の席のN・Tという少女がお金が無くなったと騒いだ時にY・Rという子が二人の仲間と共に探偵ごっこと称して犯人捜しを始めて「隣の席にいる子が怪しい」と話していると聞いたときに激しい怒りを感じたのです。
父からは「人様にご迷惑を掛ける生き方は絶対にしてはいけない」
母からは「人は見ていないと思っても、お天道様は必ず見ているから悪いことはせられん。正しく生きないかん」
ことあるごとに両親からは正しく生きることを躾られて育ちました。
そんな親の教えを守って生きている私を泥棒呼ばわりした人間が許せなくて3人の少女に「私を正しく導いて育てている親に申し訳が立たんから我が家まで来て両親に謝れ」「私を疑うということは父を侮辱することになるから絶対に許せん」と言って我が家に連れて行こうとしました。
ところが家の近くまで来ると3人が一目散に逃げ帰ったのです。
「疑われたことが悔しくて未だに首謀者の少女の名前を忘れることができません」
勿論、事件や事故のことを忘れることはできませんでしたがそれ以外の中学校での生活の出来事がすっぽり空洞ができていて、そこに私の記憶のすべてが埋められてしまったかのように何も覚えていないのです。
何をしていたのかさえ覚えていない中学時代と違って高校時代のことは否応なく覚えていることばかりです。
友達が欲しいと思ったばかりに事件の被害者のなった私はその後、友達を作ろうとは思いませんでした。
あんなに恐ろしい目あうくらいなら友達なんて必要ないと考えたのです。
いつも孤独でしたが孤独だからと言って悲しいとか寂しいという感情が芽生えたことは一度もありませんでした。
高校に入学してから友人ができることはなかったけれど秘密を抱えた私は余計な気を使わなくていいし却って友達がいないほうがよかった。
友達がいないことも心に闇を抱えたままでもいいと思っていた私に異変が起ったのは高校2年のマラソン大会の時に走っている途中でした。
体がグラグラしてすべてのものが回り始めたと思った時に意識が遠のいて気が付いたときは病院のベッドの上でした。
脳波に異常があるので確かな原因は分からないけれど事故の後遺症ではないかと医師に言われて病院通いを余儀なくされました。
その年の冬のことです。
今度は足の付け根が痛み始めて歩くのが困難になりました。
多感な少女にとって片足を引きずりながら学校に通うのが恥ずかしくて痛みをこらえて、なんとか普通に歩こうとしましたが無理して歩こうとすると学校に着くまでにとても時間が掛かるのです。
その頃から、自分がこの世に生まれたことへの疑問が生じ始めました。
結核で学校に何年も通えなかったことで友達ができず、友達が欲しいと思ったことで事件の被害者になって心の痛みは消えることがないというのに、悪魔祓いなどという叔母の口車に乗って私を祈祷所に連れて行ったり母の実家でも悪魔祓いは続き、背中に火傷の傷が残り、水泳の時間に「あの背中はどうしたん、気持ちが悪いし汚ならしい」と同級生に言われて惨めだったこともある。
今度は事故の後遺症で痛みだけならこらえるけど足を引きずらないと歩けない無様な姿になってしまった。
いったい私の人生ってなんだろう。
苦しむためだけにうまれてきたのだろうか。
私の父は神社仏閣を見ると必ず手を合わせお賽銭をあげるくらい信心深い人だったし私のことも生まれてからたった一度だけ人前での言葉遣いが悪いと叱られたことがあるだけです。
私だけでなく8人の子らみんなを慈しみ育ててくださっているのに「何故?私だけが苦しむことばかり起こるんだろう」
今考えると「生きていることがしんどかった」し、私は誰かに苦しみを分かって欲しかったんだろうと思う?
誰かに分かって欲しくて手首を切るという行動で気づいてもらいたかったのではないだろうか。
しかし、手首に包帯をするようになっても友達のいない私は誰からも「どうしたの?」とリストカットについて聞かれることもなく、傷が治れば切って、、、また切っての繰り返しで治った傷の上からまた切るの連続だったので手首は傷跡で盛り上がってしまってます。
今も残る手首の傷跡は私の苦悩の証です。
その傷跡の中にひときわ大きく真一文字の傷が残っていますがそれはリストカットとは別の二度目の自殺未遂の時の傷であまりに深く切っていたので手首からの神経が切れてしまい今も左手は不自由なままです。
話をリストカットの話に戻しましょう。
私が切ったところが治るとまた切るの連続ですから手首から包帯を外すことがなかったのに母もきょうだいも「どうしたの?」と聞いてくることはありませんでした。
母は私を含めて8人の子供を育てながら近所で困ったという人がいればお世話していましたから私のことなど気が付かなかったと思うことにしました。
父からレイプ事件のことは誰に言わないように口止めされていましたから私はいつも同じきょうだいでありながら他の姉妹とは違う穢れた人間だと子ども心に思って過ごしていたし高校生になって男女の違いがわかるようになると自分は女性として幸せには絶対になれない人間だと思うようになっていました。
ですからきょうだい特に姉妹とはうまくいってませんでした。
とにかく絶対に負けるのが厭な性格の私は事件の被害者になったことで女性としての負い目がきょうだいにあるとずっと感じて卑屈になっていました。
その反動で私は全てのきょうだいに挑戦的な態度を取り続け、父には甘えたい放題で手に入れたいものは全て手に入れたし、学校の制服も少し手を加えたりブラウスは全てオーダーメイドでないと着ませんでした。
きょうだいも多く姉ふたりと兄も国立とは言え大学に通っていたから母も大変だっと思うから気が付かなかった母を責めることはできませんがわがまま放題の私が手首に包帯を巻いていようと他のきょうだいが気にせず心配をしなかったとしても当然と言えば当然でしょう。
では誰にも気にしてもらえない私はどうしたらよかったのでしょうか。
結局、この世に生まれてきたのが間違いだったから消えてしまえばいいという結論に達しました。
列車にはねられることに決めて私は線路の上で仁王立ちに立っていました。
今から考えると笑える話ですが私の立っていたのは上り坂の坂の上でしたから、その頃の鉄道列車は今の電車のように坂を早く登ることはできません。
列車の汽笛が聞こえてもすぐにはやってこない列車を待っていると通りかかったおじさんが線路に走ってあがってきたと思ったら私を抱きかかえるようにして線路の下におろしたのです。
「余計なことせんといて」私が再び線路に上がろうとするとおじさんは私の手をつかんで引きずりおろしたのです。
列車は私の前を通り過ぎていきましたが諦めずに待っていればまた来ると考えていました。
そんな私の考えを見透かしたように「何があったのかしらんけど、あんたのお父さんもお母さんも貴女を死なせるために育てたんじゃないよ」
「心配だから、貴女を家まで送っていくからね」
見知らぬおじさんは絶対に家に送るまで離さんぞという強い意志を持ってくれているのがよくわかりました。
私はその日は死ぬのを諦めて素直におじさんの言うとおりに家に帰りました。道すがらおじさんは色々話してくれましたが「お父さんとお母さんはあなたを死なせるために育たてんじゃないよ」という言葉だけがリフレインしてほかの言葉は憶えていません
我が家に着いたときに「家の中に入るまで見ているからね」と言って、おじさんは立ったままでいるから私が仕方なく家の中に入るのを見届けてからいなくなりました。
見ず知らずの私のことを心配して家まで送ってくれる人がこの世の中にいるんだと思うとその後、死ぬ気が少し萎えたように思います。
その後も相変わらず惰性でリストカットは続きましたが母からもきょうだいからも「その手首はどうしたの?」と聞かれることはありませんでした。








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