保釈金20万円なり

初めて会った日から暮らし始めて2か月が経ったときに彼は逮捕されましたが警察署に留置されてから未決に移送された彼は保釈で出ることを望んでいました。
保釈で出るというのは簡単ですが、21歳の私にとって弁護士代を支払った上に保釈金を用意するということは大変な負担になることでした。
彼はお金を工面してくれるわけでもなく一緒に暮らすことを反対している親にも頼むことはできません。
結局、私が金策に走るしかありませんでした。
金策もさることながら保釈で出してもらうには、それなりの理由がいりますからどうしたらいいのか悩んでいるときに私が妊娠していることがわかりました。
それを理由にすると言っても簡単ではないので妊娠4か月になっていて中絶できないし将来のことを彼と話し合うことや私の身の振り方などを相談するためになんとか保釈を認めて欲しいと懇願を繰り返して、やっと保釈の許可が下りました。
保釈金20万円と言われました。昭和44年の20万円を今の時代のお金に換算すると200万円くらいになります。
10万円は人斬りの西やんの知り合いの社長が用立ててくだることになりましたが残りが中々工面できずにいるのに未決にいる彼からは保釈金はまだ用意できないのかと人の苦労も知らずに能天気なことを言ってきます。
彼を捨てた母親に頼もうかということになり人斬りの西やんが一緒に行ってくれて母親を説得してくれたので、なんとか保釈金を用意することができてほっとしました。
しかし、彼は保釈で出たら将来のことを話し合うという約束など知らぬ顔です。刑務所に収監中のことや子どもを産むことに関しても産めとも産むなとも言わず刑務所に行くから事務所当番を休むなどというのは嫌だと言って当番ということで家に帰ってこないことも多々ありました。
彼の言葉を正直に信じて保釈になれば生まれてくる子供のことについて話し合えると思っていたのにがっかりすると同時にこの人は私が子どもを産むことに反対なのだろうかという猜疑心で悩むこともありました。
私は生まれて初めて妊娠したこの子を産むことしか考えていませんでしたから彼との気持ちに温度差があることが不安でした。
そして、親からは「そんなやくざの子を産んでY家の家を恥にさらすのか」
「とにかく産むのは諦めなさい」の一点張りでした。
後で弟に言われたのは「子どもさえ生まなかったら家に戻ってくるだろう」
兎に角、子どもさえ生まなかったら別れるという選択肢が残されていると思いだったようです。
そんな親の気持ちを知りながら私は何度も中絶費用だと言って親からお金をだまし取ってはそのお金を生活費にしていました。
保釈で出た彼は金銭的なことには我関せずでしたから生活費は私が工面するしかなかったのです。
普通の人だったら刑務所に行くのがわかっているのに金銭のことも知らん顔で事務所の当番だといって家を空けていればなにか感づくはずでしょうが、
私は人を疑うということができずに彼のことを信じ切っていました。
結局、彼からこどもに関して産めともおろせともどちらかにせよという意思表示がないまま2か月が過ぎて彼は2年の刑期が決まり徳島刑務所に努めることになりました。
彼の母親に用立ててもらった保釈金を返却するということでしたが彼や人斬りの西やんが返さなくてもいいと思うから母親と話し合ってみろいうことになり西やんが一緒に行って話し合いに立ち会ってくれることになりました。
私が親からの援助は見込めないし彼が残している借金も払わねばならないから落ち着くまで返却は待ってもらえないでしょうか頼むと、上がり框に腰を掛けていた私を憎らしい顔をした彼の母親が足蹴にしたのです。
不意を食らった私は上がり框から落ちてしまいました。
それを見ていた西やんが「あんたは鬼か、自分の孫を産もうかという女性を足蹴にするとはなんということか」と母親を怒って、「あんたがこの子にしたことの慰謝料として金は返さん」「文句があるならわしか、あんたの息子に言え」と私に帰るように促してくれました。
さすが彼の母親からはその後なにも言ってきませんでした。
彼が刑務所に入ってから色んなことがわかりました。
見知らぬ女性がやってきて「あんたが○○の娘なん、親が金持ちでも刑務所を出たら私と一緒になると言ったから別れて」というのです。
鳩が豆鉄砲を食ったようというのはこのことで一体何を言われているのか分からず戸惑うばかりでした。
実際のところは事務所当番というのもそれ程行かず、女性のところに入り浸っていたのです。
そういうことがわかっても別れるという決心もつかず、生まれてくる子供と待っていればいいようにも思えて1年ほどは刑務所に面会にも行ったし手紙も毎日のように書いていました。

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