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特別で普通

皆んな違って、皆んないい。という言葉では納得出来ないほどに 時に "特別でありたい"

"誰かにとっての一番でありたい"
と願うのが人間の性ではないでしょうか。

特別でありたいと願う気持ち

それはアイデンティティの確立を願う気持ちとも似ていて、キャリアや資格や 誰かにとっての
特別の証や自分自身の特別な才能など

何か枠や肩書きや名前に安堵する気持ちであったりもします。

一方で"特別"の反対語を調べれば"普通"と出ます。

人につく"普通"、という言葉の印象はどうでしょう。

なんだか、凡人と言われているようで人の形容としては印象が良くないように思います。

ですが、最近は"普通"や"普段のこと"をありがたい、と感じることができる人ほど

今、この瞬間をただ味わい 感じることができるという点、幸せなのではないかとも思うようになりました。

特別でありたいという願いは、行き過ぎると、
ときに孤独や焦燥感を運んでくることもあります。

特別、悩んでいるのは自分だけだ という孤独と、ゴールや目的地を目指し続けなければならないという焦燥感を。


大切な人を亡くした人が、その人を生き返らせてほしいと願い、お釈迦様の元を訪ねてきたときに
お釈迦様は、3つの苦、"病、老、死"のない家を見つけてきたら救ってやると言われたので、

その人は家々を巡ると、そんな人はいなかったと気がつく、というシーンが仏教にはあるそうです。

私の母は、その説法を聞き母を亡くした苦しみに気づきが差したと言っていました。

特別を探す時、特別に目を見張るとき

今 ここにあるものを見落とすことがあります。

何かを目指し、歩みを進め登ることでしか見えない景色があると同時に、

立ち止まり見渡せば、すでにここにある景色があることにも気がついていたいと、そう思います。


生まれた瞬間から、私たちは特別でオリジナルであったのに、社会的に正しい回答を求められたり順位をつけられたり、採点されたり

まだ腑に落ちていない道徳感を覚えるうちに

自分としての感覚がおざなりになり
自分の感覚を信じ、自分を自分自身が評価する
ということが置き去りになることがあります。


そんな時には

周りに広がる景色を、ただ味わい

普通に特別を見出せるまで ゆっくりとペースを
落とし味わう時間が必要です。

そして、登りたい山や 見たい景色が
浮かぶまで、

ただ、ボゥーっとしたらいいのです。

そうして、また歩みだして、
みたい景色を観に行けばいい。

立ち止まることも、登ることも

特別を目指すことも、今 広がる景色を
味わうことも 私たちは許されているのだから 

それならば 今日は何をしましょうか、と
"今日という時間の枠"を上手に捉えてあげると

今日という特別で普通な日をより
楽しめるのではないでしょうか。





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