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日記2023.7.14

久しぶりに編み物をしました。去年の冬の入り口にマフラーを編みはじめたのですが、進みが悪く、冬の出口が見えてきても編み終えられなかったので、やる気がなくなって放置していました。
一度苦労して覚えた棒針編みは、久しぶりにやってみると手が覚えているという感じで、自分の身体の中に着実なプロセスの結果が実体として残っているのがわかって嬉しくなります。
今年の冬は最初から巻きたいです。そしてこれを巻くころには願いが一つ叶っているといいなと思います。

最近読んだ本に、<いま>は永遠に止まったままであるという記述がありました。

 これとまったく同じ意味で、<いま>には、枠がありません。<いま>は、どこまでも<いま>であり、無時間の枠をなしています。<いま>は、決して流れません。別の言い方をすれば、いつでも<いま>であり、<いま>でないときなど、どこにもありません。つまり、私たちの生は、<いま>という枠のなかにあるかぎり、決して終わらないというわけです。<永遠のいま>にいつづけるのです。

中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』

<いま>という言葉が指し示す指示対象は決して存在しえません。言及した時点ですでに<いま>は<いま>ではなくなっています。
<いま>という枠は、私の認識できる世界を超えたところにあるのでしょうか。そんなものはないともあるとも何も言うことはできません。
<いま>という枠の中のスクリーンが絶えず流れつづけていく。そういうイメージを抱くとき、「無常」ということばが頭によぎります。
知りえない世界があるということ。
領域を正しく見極ようとする気持ちを、常に持ち続けたいものです。

半年ぶりに手にしたマフラーの編み目の一つ一つに、<いま>という枠を通過した動作が形を変えて残っている。そんな気がしました。

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