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23年の恋人とお別れした話

このnoteを誰かが読んでいるとき。多分だけど、ほとんどの人から僕がサッカー選手だったこと。僕が山口県のバレイン下関というチームに在籍していたこと。僕が副キャプテンだったこと。それを忘れかけているときだと思う

1999年7月30日

僕は山口県というド派手な田舎に誕生した。聞く話によると頭が大きく、よく頭を軸にコケていたらしい(笑)

僕の家には既にサッカーがあって、物心ついた時にはすでにサッカーが隣にいた。サッカーボールのプレゼントを渡されるという、何とも親のエゴ満載の2歳の誕生日に、僕のサッカー人生は始まった

保育園に入る前も、入った後も、小学校でも、僕にとってサッカーは生活の一部だった。呼吸をするようにサッカーをするなんてくさい言葉はダサすぎて嫌だけど、正しくそうで。朝、学校に着きサッカーをし。中間休みに友達を連れてサッカーをした。お昼休みはとにかく早く給食を片付けサッカーをした。僕の嫌いなキノコや貝の給食が出た時は、これを歴史上はじめて食ったやつをひどく憎んだ。だから今でも大嫌いだ。く、食えないんじゃない。だから嫌いなんだ。

学校が終わると、当時おじいちゃんの会社で働いていたお父さんのところへ直行し、宿題を済ませ弟とお父さんの3人でサッカーをしに行った。冬にはお父さんの軽トラのライトでグランドを照らし、サッカーをした。ほぼ毎日。

既にこのnoteを書いている僕は泣いているけど気にしないで
人生を振り返るってそういうこと

監督:父 キャプテン:俺

僕のお父さんは偉大で、グランドに遊びに来ていた友達やサッカーしていた子を巻き込んでサッカーを教え始めた。3人で始めた家族サッカーが、次第に10人15人と増え始めた。気づけば「夕方練習」なんて名前がついて僕らはボールを蹴っていた。多分小学校側も目を瞑っていたんだろうなと今は思う。

市内のクラブチームに0-11で負けるような弱小チームが、いつしか30人を超える大所帯となった。

未だにお父さんは、本当のアホなのか、戦略家なのか、人格者なのか、はたまたアホなのかは分からない。

とにかくサッカーを楽しむこと

を掲げ続ける人で、ある意味頑固にそれに固執していた
反感を買うこともあったし、30人もいることだ。自分への嫉妬や聞こえるところでのお父さんへの悪口なんて普通に聞いた。

でも1度も、サッカーを、お父さんを嫌いになることはなかった

信念を持つこと

これが人の心を動かすことを知ったのほんの最近だった

当時、僕の心は壊れたのか、良い方向へ進んだのかは分からない
けど今の僕からするとめちゃくちゃよかった。

何かというと

「雑魚が調子に乗んな」

これが僕の心境だった

お父さんが監督で、キャプテンだった僕。

正直チームでは1番上手かったし、周りからの評価も高かった

悪口を言うやつのほとんどは試合に出れない選手で僕の心の中はその言葉しかなかったし、それを発した時もあった。世の中は実力主義なんだと勝手に自分の心の中に植え付けていたし、それで保っていた気がする。

人生を動かした全国大会

僕がお父さんと、そしてチームメイトと掲げた目標は「全国大会」
ただその結果は県ベスト8で終わった。強いと思ってた。だしそう言われていた。8人制サッカーが始まった1999年世代。ポゼッションサッカーなんて言葉がはやった1999年世代。後ろからビルドアップをして選手がポジションにこだわらず流動的に考えてするサッカーが面白いと言い続けた監督は試合中に5つのシステムを相手に合わせて変化させてくる変態だった。けどそれで僕らは強くなった。0-11で勝てなかったアイツらには、0-1で負けたけど市内を2位で通過した。小郡の鶴丸。で県内多くの人が僕の存在を知っていた。それでも負けた。

「雑魚が調子に乗んな」

完全に雑魚は自分だった。

ありがたいことに僕は県内の、私立中学に特待枠で呼んでもらえた。みんなめちゃくちゃ上手かった。どんな声の掛け方をしたのか知らないが12人の新加入のうち10人が攻撃の選手。残り2人はGK。多分、この時の監督もあ〇なのかもしれない、、、(笑)

そしてその10人の中で僕は攻撃の選手としてはほぼ最下位だった。初めて味わった。その時僕は、「雑魚が調子に乗んな」この言葉がずっと心にあった。

そして僕はCBになった。中学生ながら痛感したし。「君にような勘の良いガキは嫌いだよ」なんて言われそうなほど、勘の良いガキだった僕は察した。「俺は攻撃の選手としてはダメなんだ」って

この時からサッカーはさほど楽しくなかった。

ずっと走らされるし、サッカーは下手だし、帰るのは遅いし、朝は早い。

お父さんに「やめたい」って言ったこともある。

その時に「じゃあやめろ」そう言われてハッとした。

確かに当時の僕はサッカーが楽しいなんて微塵も思わなかった。走らされないように言われたことをきっちりやって、怒られないようにミスをしない安全牌を選び続けた。小学生のような挑戦的な選択はしない。とにかく失敗しない選択だけをし続けた。例えば上手くパスが通って周りから褒められても、それは安全牌を選んだ自分の逃げの一手であって、何も嬉しくなかった。

ここまで読んでくれたあなたへ

最初はちょっと感動的だったけど、次第に「なんやねん。暗すぎやろ。おもんな」となったそこのあなたへ

もう少し読んでみませんか?

きっとスポーツ界には挫折したけど俺にはこんな未来が待ってたんだぜ!

みたいな煌びやかな成功談しか無いように見えるけど

実は世の中の多くのスポーツマンは僕みたいな選手です。

その選手たちが「運が良かっただけ」

そんなダサいことが言いたいわけではないし

彼らは間違いなく僕みたいな選手の数倍以上努力した結果です

まあとりあえず続きを読んでみましょうか

全国高校サッカー選手権

高校2年生の秋。Bチームのキャプテンがトップチームへ召集された。次のキャプテンは「お前な」それが僕だった。当時のBチームは特に曲者ぞろいで、練習はふざける。試合中すぐにはぶてる。けど調子に乗ったらマジで上手い。そんなチームだった。僕は持ち前の、安全牌に磨きがかかり、安定したプレーでBチームの監督から厚い信頼を得ていた。試合に負けて「どうする?走る?お前が決めて良いよ」なんて言われるほどの信頼度鬼分厚いやつだった。同校の選手が聞いたらビビるでしょ(笑)

こんなとこでカミングアウトをすると

2年の冬の遠征

1時間前くらいからする我が校伝統のアップを辞めた。
何年も続く携帯回収制度を廃止した。

とにかく「どうすれば俺らが楽しくサッカーできるか?を考えた」
「Enjoy football」なんて言ったりもしていた。

結果、めちゃくちゃ強かった。
紅白戦でトップチームに勝って土下座させたこともある。
選手のみんなからもひどく信頼されたいた(自称)

まあもちろん練習はちゃんとやってくれなかったけど…

ただトップチームに上がっても試合には出れなかった。

その上に、夏のインターハイ後。選手権に向けてのチーム再編成を謳った遠征1発目。Bチームでの実績に調子乗っていた僕はせっかく獲得したスタメンにも関わらず、監督の指示に強く反発した。

高校3年夏、3軍の控えスタート

次の遠征はCチームの遠征へ。

僕のこの学校での6年間は終わりを迎えました。

そう心に硬く呟いた。もはやそれ以外考えられなかった。
いや、あのさ、目の前からピストル持った奴が自分に銃口向けて来て
んーまだ生きれそうだな、、、なんて思わんやろ

その時の僕の気持ちがそれ

秋から始まる高校選手権予選

僕は8月の終わりに3軍へと落ちました。

はい。その通りです。

グレマシタ。

だって我が校は全面人工芝何すよ?
3軍がどこで練習するか知ってます?
土っすよ。隣の。

1か月後くらいから始まるんすよ。選手権。無理やん。

え?ぐれたん?想像つかんわ。

ってことであの鶴丸選手がぐれて何をしたか教えますね。
注意して聞いてください。
もしかしたら大炎上するかもしれないし、見損なって嫌いになるかもしれません。でもこれは僕の人生を振り返る何年先も見返す記憶になると思うので書きますね。

①監督へ挨拶しない
②グランド出るときに失礼しますって言わない
③練習後のアイシングしない
④練習終わったらすぐ帰る

ぜひ我が校の知り合いがいたら聞いてください。いかに反逆罪なのかを。

でもね

そんな僕のね

目に飛び込んできたものがあるんです

毎朝、1人で自主練している弟の姿です


いまでも鮮明に覚えています。

実は僕、昨年1年3か月ほどスタバでバイトしていました。その時の面接でこんな質問がありました。

「あなたの人生最大の挫折とそれを乗り越えた方法を教えてください」

僕はその質問が来た瞬間にこの話をしていました

そう弟は、僕と幼少期ずっと一緒にサッカーをしてきました

こんなの言うとあれですがめちゃ上手いです

いや今のプレーをきちんと見たことが無いので過去のことだけ言いましょうか。上手かったです。両足を使えて、パスがとにかく正確。

けどね僕と同じ道に中学校から来て、その世代の子は平均身長175㎝とか。
結構スーパーな世代。弟は当時、背が低く、フィジカルゲーな中学生世代で全く出れなかった。多分僕が、その世代にいたら余裕で腐ってるくらいスーパーだった。

でも弟はどんな時でも朝、1人でグランドに向かい右奥の壁のあるグランドでボールを蹴っていたんです。当時、絶対誰も来ないような日に朝練しにいった僕は本当に後ろからバットでフルスイングされたような感覚に陥りました。すいません、泣いてるので誤字ってるかもです。

弟は僕とずっとサッカーをしてきました。本当にずっとです。もしかしたら小学校でちやほやされて、中学校でなんだかんだ2年から試合に出て全国大会に2回も出てる僕を目標にしてたかもしれません。3つ年の離れた僕らはこの学校で一緒にプレーすることはありません。

昔からずっと一緒にプレーしてきた1番身近な選手がひたすらにもがいているのに、その見本にもなれない兄だということに「雑魚が調子に乗んなよ」そう思ったと同時に「まじでごめん」って思いがこみ上げてきました。

俺にはもっと出来ることがある

もし選手権に出れなくても、1番近くでサッカーしてきた弟が目標にしたいと思えるような選手でいよう。そう決意しました。

多分あの日の僕は3軍で1番うざかったと思います。

練習もふざけていた僕が、めちゃくちゃキレるし、くっそ真面目。
多分あの時のみんなは嫌いだろうな俺のこと(笑)

そして迎えた選手権予選


僕はスタメンで、山口県を制覇しました。

と同時にお父さんと、そして家族で追いかけた
昔から朝に大掃除してお昼からみんなで見ていた夢の舞台に立つことが決まりました。

全て弟のおかげです

そう、この話しをスタバの面接でした時も少し泣きそうでした。

夢の舞台は、とにかく夢の舞台で楽しかったので写真を掲載してこの話は終わります。

あ、実は
新人戦優勝、インハイ予選優勝、中国大会準優勝、県リーグ優勝、プリンスリーグ昇格、選手権予選優勝。全部獲りました。過去の栄光です。笑

時は飛んでバレインへ

やっと、僕がこのnoteを通じて皆さんに話したことがやってきました。もう腱鞘炎です

僕がバレインに入団した経緯は、大学中退です。

実は大学(関西リーグ2部)では入学前のvsバンディオンセ加古川(現:チェントクオーレ播磨)にてスタメンデビュー×先制点アシストと盛大なスタートを切り、試合にそこそこ使い続けてもらいました。

そこから入団までの経緯をめちゃくちゃ簡単にまとめると
めちゃくちゃ調子には乗った

けど、周りめちゃうめぇ

J1に行った選手は1個上のカテゴリーでも数人だけ(大体大の菊池流帆とか)

うん、無理やん。

先輩が海外へ

海外でプレーする選手をよく聞くようになる(下カテゴリーでも食ってるやつよく聞く)

よし海外に最後の挑戦や!

稼げても稼げんくても2年で引退や!

本気やから大学はやめるで!

コロナ大流行です

嘘やろ…

自主練するわ

筋トレし過ぎた

鏡汚っ


来年春からいけるかもよ

バレインに練習行かせてもらう

康太さんからバレイン入れよ

はい

という流れです(笑)


僕はこうしてFCバレイン下関へ

1年目は、というか激動の1年だった。社会人サッカーになれない中、スタメンを獲得と同時に監督解任。そしてベンチ外へ。再びスタメンを取るも、最年少×メンタル弱くて疲弊してベンチ外へ。年末、地域チャンピオンズリーグ2試合スタメン。

熱狂的で選手思いなサポーターの声援の中、とてつもなく貴重な1シーズンを経験した。そして辞めようと思っていたサッカーを1年延長した。この時既にスタバでバイトをし、映像制作を始めていた。

少しサッカーから離れてここの経緯を。

なぜ映像制作をしようとしたのか?
詳しい話はコレ読んでください

そして完全にニートだった自分は本気で映像で稼ぎたかった。確証はない。けどコレで稼げれば絶対楽しい。そう思ってた。だから学べる場所で働くべきだと思った。面接でもこう言った「僕はサッカーをしていて将来は映像制作で稼ぎたい。だからここでは学びたい」よくぞ店長は採用したなと。もはや学べたらもう次のしたいことがあるから絶対やめるで!でも採用してな!直訳するとこれ。

これは自分の人生の超正解

僕の苦手意識のあった
①信頼を構築するコミュニケーション
②リーダーシップ
③コーチングスキル
④チームワーク
⑤コーヒー
全てを学べた。

シフトリクエストすら出さずに急遽決まった練習試合のために休みを懇願するくそバイトに嫌な顔1つせず対応して試合にまで応援に来てくれた店長には頭が上がらない。もはや「映像の仕事が忙しくて、、、」というプロとしてあるまじき行為にも対応してくれた。

僕にとって天職に近かったスタバは、本当にたくさんのことを学ばせてもらい今の僕、そして未来の僕にとってとんでもなく大きい存在になるだろう、そう本気で思っている。

①~⑤は学んだ中の詳細であって
今の僕に本気で染みついていることは

めちゃくちゃカッコよく言うと

”愛されたいなら、愛しなさい”

ありとあらゆるものが手に入る今。唯一どんどん人々から消えているもの。それが愛。SNSが普及し、人々をマッチングさせるアプリが普及し、人々の繋がりはより強固になったように見えて、それが故に繋がりは薄くなっている。そんな時代。だから人々は愛を渇望し、愛に苦しむ。故に愛を憎しみ、愛に憤怒するようになる。

なんて情けないんだと。

愛は返ってくるもの。

愛される人とは、それだけたくさんの人を愛している人
自分からその人を愛することさえできれば、その人は自然と愛を返そうとする。 

もちろん、今の僕にもまだまだ足りない部分です

いけない、いけない脱線しましたね(笑)

ほんと良くない…

そして迎えた2023シーズン

「カズキとダイキが副キャプテンね」

そう言われた開幕1週間前

左足首外側側副靭帯断裂

一度は捻挫と診断されるも実は靭帯切れちゃってたパターンで夏に入院・手術。完全復帰予定は11月。

さすがに知らない人はいないとは思いますが改めまして

昨シーズン1試合も出れませんでした。

これが良かったのか、悪かったのか

多くの人は「まぁ怪我して良かったかもね」なんて言います
もちろん僕も「たしかに!ホントそうですよね!」って言います

もしかしたらそうかもしれないけどね

このnoteに書いてる通りさ

「良いわけねぇじゃん。」

それが僕の本音でした

もちろん今は違います

たしかにあれでよかったのかもな。そう思えてます。

待て待て、置き去りやで?何があったん?

すいません(笑)

実は僕手術が決まったタイミングで引退を決めました。というより決めようと思いました(?)

その時、映像制作で少しばかり形になっていたんです。

この際、サッカーに充てていた時間とエネルギーをフルコミットしてみるか!

そう思ったのがこの時です

手術をきっかけに、営業文、資料を刷新。
手術が17時くらいに終わり翌日。まだ点滴の針が左手の甲に刺さっているときからキーボードを叩き始めました。針が半分抜け血が逆流して看護師を呼んだこともありました。朝6時には起き、共有スペースで本を読み、朝ごはんを食べに返って、パソコン。お昼ご飯を食べて、パソコン。夜は消灯までパソコン。左手に刺さってる針の痛みと闘いながらパソコン。

気付けば提携企業が7社に増え、「コレや!」そう思いました

当時怪我人は、木土以外の朝練は自由参加だったため、
もちろん副キャプテンとして行くべきだと思いながらも、行けば絶対にサッカーがしたくなって揺れると思ったのでその日以外は行きませんでした。朝から晩までひたすらパソコンと向き合い、ひどい時には1日3時間睡眠が2週間続いたこともありました。

それでも「俺はこの仕事で生きていける」なぜかそう確信していた僕は10月に、康太さんにお願いして休みをもらい東京に行きました。提携先の企業の社長さんたちに会いに行きました。その時に東京に行こうと決心しました。これが事実上の引退決定になります。そして今僕は、東京にて【LiiK FILMs】という映像制作屋さんをしています。

手掛けた作品は

  • 下関青年会議所 記念式典ムービー

  • YouTube 安倍晋三チャンネル(数本のみ)

  • 下関東ライオンズクラブ 記念式典ムービー

  • FCバレイン下関 MDP その他SNS用画像等

  • 某ドローン会社VP

  • 某コンサルティング会社VP

  • サロン成ゆ様 イメージ動画

  • YouTube 児玉剛VLOG

  • ELEMENT中野店 VP

主に
【個人向け】

  • ウェディングフォト/ムービー

  • ファミリーフォト

【法人向け】

  • コンテンツエディット

  • 企業VP

  • YouTube

を手掛けております

そろそろ僕が1番伝えたいことを書いても良いですか?

適材が適所に行く勇気

じゃあ僕が「よっしゃ映像で稼ぎ始めたし、サッカー辞めるか!」なんてことになるかぁぁぁぁぁぁ(笑)ありとあらゆる葛藤がありましたよ。ファン感謝祭でも言った通り。「サッカーは嫌いになったわけではない、むしろ年々好きが増す。でもそれ以上に追いかけたい夢ができた」この言葉の通りです。

23年ともにしてきたサッカーはそれだけでは稼ぐことができなかった。

1年やってきた映像はそれで生活ができるようになった。

嫌でも痛感しますよ、こんなの

自分は映像制作が適所で、そこで輝く適材なんだと。

サッカーはさほど適していなかったと。

もはや自分で手繰り寄せた映像というものが全てのエビデンスを揃えて目の前に出してくるんだからそりゃ辛いってもんじゃないですよ。

23年やってきたことでは生活できなくて
1年やったものは生活できるまでになった

あなたならどっちを選びますか?
※どちらも好きなものとする






誰やねん。前者選んだやつ(笑)

まぁそれは人それぞれだとして…

コレが僕が今回1番伝えたい話です

もう今の自分はこの選択に全く後悔していません。
「人の夢は終わらねェ」ので

今は全力で次の夢を追いかけています

僕の夢はこのnoteを投稿したTweetのリプ欄に書いてます。

このnoteをここまで見てくれている全ての人へ

人の夢は本当に終わらねェのです

めちゃくちゃくさいこと言います。

人生は1回しかないです

だったらさ、楽しめよ

損得とか1回抜きにしてさ

お前が今1番したいことやれよ

はいはい分かったから

周りが、、、とか
親が、、、とか
社会的に、、、とか

マジでどうでもいいから

お前が今1番したいこと一旦言ってみな?

今それしてる?

してなくてもそれ叶えようと必死にやってる?

ほら、なんで自分に嘘ついてんの?

自分自身に嘘ついて誰が自分のこと信じれるん?

良いんよ。別にお金が無くなってもこの国ならバイトすれば何とかなる

盛大に恥ずかしいこと言いますね

調子に乗ってカメラ買って稼げると思ってました。

半年以上稼げませんでした。

収入無さ過ぎて家賃払えなくなって、消費者金融でお金借りてました。

親にバレてマジで怒られました。

それでいて見捨てられず再チャレンジできました。

でも、だからこそ

「おれ、マジで雑魚やん。」

そう思えて

全てのプライドをいい意味で無くしました

そして

もう俺は両親に恩返ししないと、誰にも合わせる顔が無い

そう感じた時に「やりたい」が「やるしかない」になりました

俺の目標は親父です

アイツはすげえ

俺が東京に行く前日までアイツはすごかった

親として、男として、目標です。

もちろん家族全員すごいです。

今回の話には出てこなかったお母さんも、お姉ちゃんも
俺からしたらほんとにすごすぎて、常に劣等感でした。
学力も学歴も全て兄弟で最下位です。

もはや自分には自分の目標を叶えて
家族に盛大に恩返しをする。それしかないです。

って

このnoteをここまで読んでくれた人からすると、ここまでネガティブな僕を見ることは初めてかもしれません。常に強気でポジティブに振舞っている僕ですが、実はコンプレックスにまみれた人間なんです。

正直このnoteでここまで書くつもりではありませんでした。

でももしかしたら僕が元・バレイン下関の選手として誰かに声を届けるのは最後だと。

僕が愛して止まなかったサッカーについて語るのが最後だと思うと、僕のすべてをさらけ出すべきだと思いました。結果として引退後から書き溜めた脚本を無視して今noteを執筆しています。

僕が冒頭で伝えようとしていた言葉はこれです

“人にはその人の輝ける場所がある。だから苦しい場所から逃げることを恐れるな。あなたの輝く場所、あなたを必要としている人は必ずいる。それはあなたの好きの先にある”

もちろんコレは本当に僕が思っていて伝えたいと思っていたことです

コレを呼んでいるのが小学生でも、中学生でも、高校生でも、大学生、専門学生、フリーター、社会人、そして僕より年上でも

学校が嫌だとか、部活が嫌だとか、友達関係が嫌、仕事が嫌。

そう思ってる全ての人へ

そのあなたの思いは決して変なことでも悪いことでもない

ただ本能がときめいていないだけで
今のあなたには向いていないだけで

だから前向きに逃げる選択肢があることを持ち続けてほしい

あなたの人生はたった1回。あなたにしかないものだから

というのが最初考えていた、結末です

全て変更します。

Answer

僕はさらけ出してしまった通り、非常に弱い人間です

もちろんこれはnoteなので消すこともできます
でも僕の今の仕事は映像クリエイター。自分の手で生み出したものに誇りも持てずに何がクリエイターじゃ!ってリトルカズキに言われそうなので修正もせず投稿します(笑)

人はとにかく弱いんだと

常にコンプレックスを抱えていて
でもプライドがあって

自分を大きく見せることに必死になって
いつしか弱みを見せることが怖くなっていく

それでいいじゃん

たった1度の人生で

他人にどう見られようと1回死んでしまったらもう関係ないわけで
人に唯一決まってることは「必ず死ぬ」ということ

成功するかどうか?
大好きな人と結婚するかどうか?
人気者になれるかどうか?
大金持ちになれるかどうか?

そんなのは決まってなくて、実力はさておき、ほとんどが運で

でも誰にも平等に決まっていることそれが死ぬこと

どうせ死ぬんなら最期に
嫌なこといっぱいで死ぬより
幸せな思い出で死んだ方がマシやん

いや待て、笑

話が重すぎるて(笑)

まあとにかく

全ての人が弱いんだと

そんな時は弱みを見せることを恐れないで良いよ

最初は恐いけどさ

ちょっと遡って俺の文章読んでみ?

なかなかおらんやろこんだけさらけ出すやつ。。。笑

いいよ

別にコレで読んでくれた100人のうち90人くらいがさ
え?そんなやつやったん?って
まじやばいやん、嫌い。ってなっても

10人でも5人でも好きでいてくれたらそれで良いし

上辺を好きな100人いるより、中身を好きな10人いた方がよくね?
ちょっと自論すぎるか(笑)

まあとにかくさ
弱さとか、劣等感とか。コンプレックスとか、全部含めてあなたなんだからさ全部受け入れて、コレが俺/私なんだって思って生きていこうぜ

それではここで1曲

僕のお父さんが小学校のチームのテーマソングにしていた曲です。どうぞ

君の足に絡みつくのは何劣等感?
それとも不調和な
日々に芽生えた違和感?
空虚な空
気が付けばほらうつむいて
一人ぼっちになってた
いつかの帰り道
特別な事ではないさ
それぞれ悲しみを抱えてんだよ
自分次第で日々を塗り替えていける
誰の心の中にも弱虫は存在していて
そいつとどう向き合うかに
いつもかかってんだ
そうやって痛みや
優しさを知って行くんだよ
間違いなんてきっと
何一つ無いんだよ
誰のせいでもないさ
人は皆鏡だから
勇気を出して虹を描こう
越えて越えて越えて
流した涙はいつしか
一筋の光に変わる

曲がりくねった道の途中で
いくつもの分岐点に
僕等は出会うだろう
だけどもう振り返らなくて
いいんだよ
君だけの道
その足で歩いて行くんだよ
遠回りしたっていいさ
時にはつまづく事もあるさ
でも答えはいつも
君だけの物だから...
届け 届け届け
暗闇の中で泣いてたんだね
希望を乗せ空に響け

乾いた大地踏みしめる
ホコリまみれのBoots
与えられてきた使命(いのち)
取り戻すのさRoots
吹き抜ける風の中を
光と影を受け止めたなら
行こう 君と
越えて越えて越えて
越えて越えて越えて
流した涙はいつしか
一筋の光に変わる
虹色の明日へ続く...
雨上がりの空に
そっと架かる虹の橋
雨上がりの空に
そっと架かる虹の橋

虹/ゆず

アイツは、戦略家です。









「またいつか違う形で会えたら」










「そうして僕は23年付き合ったサッカーとお別れしました」

FIN.







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