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漢服流行、礼賛。――「脱構築!」14歳からの中国街歩き練習帳


荊州の旅で「天女」に遭遇した話

(1)『三国志』の舞台として名高い、荊州の旅のひとコマである。ぼくは長江沿いに広がる、万寿園という庭園へやってきた。お目当ては二つ。すなわち、全国重点文物保護単位に指定される明代の塔、そして長江の絶景である。さて、喜び勇んでクルマを降りたところ、なんとそこに麗しき女神が舞い降りた。からころも、否(いな)しろたへの。いや相応(ふさわ)しい言葉が出てこない。なにしろ湖北省の旅先である。伝説の巫山(ふざん)の神女ではないかと目を疑った。漢服というのか唐服というのか、ともかく白地の時代劇風衣装に身を包んだその黒髪の女子は、幅広のゆったりとした袖(そで)や裾(すそ)をなびかせながら、一人スーッと園内へ消えていった。大ぶりの黒扇を手に、じつに軽やかな足どりで。唐突なるヒロインの登場に我を忘れ、ぼくはポカンとその後ろ姿を見送った。初めチラと覗いた幼い横顔からすると、おそらく二十歳くらいだろう。万寿園の入口は、浅葱(あさぎ)色の瓦(かわら)屋根を戴(いただ)く赤門である。そんな古風なロケーションと伝統衣装との相乗効果によって、異国の旅先で一瞬、時代感覚が失われる。いわゆる古装劇(時代劇)の人気とSNSの興隆、それから近年とみに喧伝(けんでん)される愛国消費熱(国潮=中国的デザインや国産ブランドを好む若者の消費トレンド)が後押ししているのか、このようなコスプレは二〇一〇年代、数日間の旅行でもたびたび見かけるようになった。いま現れた女性も、自撮り投稿目的か知らぬが、きっとそのような趣味なのだろう。

荊州二日目の朝「天女1号」に遭遇。姿勢が良い子はとくに映える!

(2)ぼくの体験では、二〇一三年春に四川省成都市を訪れたところ、こうした古典的装いの少女たちと立て続けに遭遇。大いに驚かされた。場所は、成都きっての観光名所である錦里と杜甫草堂。観光地にありがちな安っぽい貸衣装ではなく、いずれも自前のおしゃれ着と見えた。そこでは時代劇風の「扮装」にとどまらず、アニメキャラを模したようなコスチュームの集団にも出会った。庭園内の水辺で彼女たちが撮影に興じるさまを、他の観光客とともに遠目に眺めていたのを覚えている。過去の中国旅では、街ナカで派手な色合いのファッションや「北京ビキニ」と呼ばれるお腹を出したおじさんの姿に目を奪われることはあっても、趣味ベクトル全開のコスプレで街を闊歩(かっぽ)する人など一度も目撃したことがなかった。そんなわけで、偶然目にした成都女子たちの【創意・勇気】にただただ感服させられたのである。ぼくは当時、章子怡(チャンツィイー)や趙薇(ヴィッキーチャオ)、はたまた范冰冰(ファンビンビン)といった時代の寵児(ちょうじ)たる女優の主演作品あたりから古装愛好の芽が生まれ、(物心両面で余裕ある)若者たちの間で普及したものと推測していた。だが、帰国後に周囲の中国人たちに訊ねてみると、とくに流行発生の端緒となった作品は思い当たらないと口を揃えて言う(日本人の感覚だと、テレビ発のブームに乗っかって一斉にと考えがちだが)。また、彼女たちの装いや立ち居振る舞いから透けて見えるのは、自分の趣味に正直でありたいとか個性的でいたいなどという、日本の若者と変わらぬ「渇望」だ。中国女子のあいだで浸透した漢服人気も、やはりある程度の時間・空間の幅をもって一個の流行ジャンルと認知され、しだいに「SNS映えを競う愛好者」を量産するに至ったと考えられる。もちろん淘宝(タオバオ)などネット販売企業の台頭も、流行を支える大きな環境変化として挙げられるだろう。

2013年3月成都。上は錦里、下は杜甫草堂。様々なスタイルの「扮装」を目撃した。

(3)それはそうと、この漢服ブーム。不思議なことに二〇一九年時点では、SNSを含む日本語媒体でほとんど取り上げられていなかった。ぼくの調べによると、この旅の直後、二〇一九年九月二八日に東方新報が「漢民族の伝統衣装『漢服』 中国の若者の間でブームに」と伝えたくらいである。結局は、二〇二一年後半になってようやく、各社堰(せき)を打ったように横並びで流行を報じるようになったのだが、これには正直ぼくもズッコケてしまった。見たところ、当現象は全国の都市という都市でかなり可視的に広まっていったはずである。外見的インパクトも大きく、画像付きで紹介しやすい。となれば、まさに格好の「映える素材」ではないかと。しかも、ひとたび彼女たちの存在に気づけば、やはり相応の背景・動機を追いかけたくなるのが人情であろう。はたして報道関係者たちは、街ナカで何か心惹かれるものがなかったのだろうか。そう不思議に思うのである。ただ、他人様の事情を邪推しても仕方がない。ここは、中国旅行ならではの数々の幸運な出会いと発見に心躍らせた経験から(といっても中学二年時の初旅行以降、四半世紀のあいだに約二〇回、延べ四ヵ月程度に過ぎないが)、敢えて時間尺を長くとって、この現象について考えてみたい。まず、およそ漢服とは身体をゆったりと包む、日本の着物よりもっと日常使いしづらい形状であり、また比較的薄い素材を多用しているという部分に注目しよう。単なる憧れや思いつきで、安易に着用できる代物ではない。外出には相当ハードルが高そうだ。となると、思い至るのは漢服流行に必要不可欠な「社会の新しい仕様」である。すなわち、(A)材料・製品・着こなし情報が広くあまねく共有され、(B)安全かつクリーンな環境で歩行・市内移動が可能で、(C)さらに華麗な装いに相応(ふさわ)しい撮影場所と、(D)魅力的な投稿サイトが存在する、といった下地だ。このように列挙してみたところで、なんだ至極当たり前のことではないかとお思いになるだろうけれど、旅は道連れ。ごいっしょに想像力を働かせ、時代をさかのぼってみよう。たとえば、もしも一九九〇年代、古装愛好の女子が果敢にこれを実践していたらどうなっていたか。それは苦難の連続、李白さん風にいえば、まさに行路難(かた)しである。

もし九〇年代に漢服マニアの女子が出現していたら

(1)最初は材料入手の壁だ。「彼女」は、半日かけて目当ての衣料品市場を訪れ、終始大声で値段交渉して相場を知り、めぼしい業者から生地を仕入れることになる。まずここで、当人の体力・忍耐力・交渉力が試される。ついでに、国営の新華書店で印刷・製本の良くないモノクロの服装図案書を一冊買ってくる。それから、自宅でみずからハサミと糸と針を操り、見よう見まねでなんとか漢服らしきものを拵(こしら)える。しかし、問題はこれからだ。一張羅(いっちょうら)を召して一歩家を出たなら、でこぼこ道や路上のゴミできっと靴や裾を汚すことになる。荒っぽいオート三輪やリヤカーとの衝突にも気をつけたい。地区によっては、犬や鶏やその他の家畜を避けながら慎重に歩かなければならない(彼らの落とし物にも注意だ!)。当然、時間を持てあました近所のおじさん、おばさんには貴妃様とからかわれ、陰でうわさ話をされる。それと小さな子供が数人、珍しげについてくるかもしれない(遊び唄のように何か囃(はや)し立てながら)。撮影場所は人民公園あるいは寺廟、そこで類友(るいとも)と集合する流れとしよう。おしゃれなカフェやフォトジェニックな商業施設はまず存在しない。ちなみに、公交車(バス)に乗ればつねに乗降客が入り乱れ、押し合いへし合いだ。

(2)そして、どうにか目的地へやって来たとしてもだ。友人と定刻に落ち合える保証はない(時刻表どおりの市内交通機関などないのだ)。仕方なく公園内または境内を徘徊するのだが、この時代の漢服姿はやっぱり人目を引きすぎる。いったい、この姑娘(クーニャン)はどうした、見合い写真でも撮るつもりかと騒ぎたてる、遠慮なき野次馬を呼びこむことも想定される。それでも、やっとのことで二、三の同好の士と合流を果たし、何とかいい感じの庵(いおり)や東屋(あずまや)を確保、ひとしきり写真撮影に成功したとする。でも、結局この時代、会心の画像をアップロードする場所があるわけでもない。仮に撮影が主目的でなくても、これまで見てきたように外出自体のハードルが高いことは自明である。いや、そもそも九〇年代の中国の街といえば、どこへ行っても埃(ほこり)っぽくてすえた匂(にお)いがして、さらに今と比較にならないくらいガソリン臭も強烈だった(幹線道路や工事現場付近はとくに息苦しかった)。だから、純白の漢服で長時間歩き回るなど無謀の極みで、それこそ即日ズタボロ状態となったに違いない。かといって、外出中に任意の公共厠所(トイレ)で勇気ある着替えができるかといえば、これまた「究極の選択」であろう。汚れや臭いはともかく、たいてい個室がないのだから。ひとまず、これが一般論。北京の円明園や大観園などに自家用車で乗りつけ、西洋風・中華風の名園で華やかに女優ごっこができるのは、それこそ一部の数寄者に限られたはずだ。それに同時代、日本であればサークルや文化祭のノリで子供が気軽に楽しめそうな話だが、ほぼ勉強漬けの毎日を送る中国の高校生・大学生にとっては、たとえ個人的趣味であったとしても、手間がかかる上に賛同者を得られにくいという点で、やはり縁遠いジャンルだったろうと察せられる。とくに寮生活を送る学生ならば、ヘンな趣味にかまけていないで勉強しなさいとルームメイトにまで反対されそうだ。

(3)以上ここまで、なかなか壮大な妄想語りになってしまったが、事ほどさように時代の変化は甚大だ。ぼくも当初は古装少女と遭遇してビックリさせられたと書いたけれど、本当のところは表面的な服装の流行り以上に、多様な趣味を成立させ、また許容する街や人々の大変化に圧倒されたのだ。中国の若者だってこの十年二十年三十年、物質的豊かさを享受しながら大量の情報や流行に接し、それぞれに歳を重ねながら、やっと思い思いの趣味を楽しめるようになったわけである(異国の話といえども、ぼくはそうした想像力を欠かさずに各世代の中国人を観察・理解したいと思っている)。それと実際のところ、中国でも古い街並みはほぼ消えかかっているわけだが、その一方で旧市街・村落・運河などの観光価値を再評価する動きも生まれている。とくに、二〇〇〇年頃から各地の古鎮観光が人気を博し、これに伴い全国の少なからぬ古鎮が、集客のため小ぎれいに改装された(鎮とは中国の行政単位の一つで「町」「タウン」と訳されることが多い)。こうした観光施策上のアイデアと演出もまた、長い目で見ると漢服着用ブームの下地を作ったといえそうだ。

(4)つまりはこうだ。テレビでは古装劇ドラマが放送され、通販サイトには各種古装アイテムの商品情報があり、SNSには誰かの古装お出かけ日記があふれている。街ナカには年代物であろうとリノベ物件だろうと、旧時を感じさせる渋い建造物や商業地(すなわち絶好の撮影舞台)が数多く存在するし、もちろん漢服姿での移動を助ける、快適な交通網も絶賛拡張中である。このように、今やリアルにもバーチャルにも「古装を着て街を歩こう」と若者を誘う環境が完全に整ったといえるのだ。なお近年の中国メディアの記事によると、とくに九五后(ジウウーホウ=一九九五年以降生まれの世代)の漢服同好会が数多く結成され、各種仮装イベントの企画・参加例が増えているという。漢服ブームは、まだまだ中国全土で波及・発展しそうである(と書いているうちにも中国Z世代の煌びやかな古装動画が大量に拡散されるようになったのはご存じのとおりである)。

武漢で「踊る天女」をポエムにしてみた

(1)明くる日。こちらは湖北省の省都・武漢。東湖は市内有数の景勝地で、市民の憩いの場である。湖は三三平方公里(キロ)。『中国名勝旧跡事典』(ぺりかん社、一九八六年)によれば、かつて「北岸は萩や葦(あし)に覆われ、漁師の家がたたず」んでいたというが、いまは湿地公園やアミューズメントパークなど現代的な保養地として開発が進んでいる。一方で西側の湖畔には、数々の歴史的亭台・楼閣が点在して人々の目を楽しませている。

天気は快晴。風光明媚な東湖のほとりをカップルや家族連れが歩いていく。

(2)さて、園内に「瀕湖画廊(ピンフーホワラン)」という楼閣がある。いわゆる演芸用舞台、戯台(シータイ)ではないが、その伝統的建築の正面におそろいの古装を召した女子が十数名、集合していた。遠目からは白一色の漢服に見えたが、近づいてみると、これが刺繍の施された薄桃色の衣装である。そして袴(はかま)部分は薄衣の空色。首元が詰め襟(えり)になっているのは、旗袍(チーパオ=チャイナドレス)を意識したものだろうか。みな二十歳そこそこに見える。彼女たちは、最初キャッキャとおどけていたのだが、やおらフォーメーションを組んだかと思うと一時停止、突然流れ出した二胡とピアノの音色、それと男声バラードに合わせて華麗に踊り出した。青と黄色の透けるほど薄いスカーフを手に、フィギュアスケーターのような手の動きを繰り返したかと思えば、着物の裾(すそ)を翻(ひるがえ)しながら回転したり、しなをつくったり。クラシックバレエのような足取りで立ち位置を変えたり、あるいはグループごとに時間差で演技したりもする。息ピッタリの演技が続いた。その間およそ三分弱。曲が止まると、控えめな決めポーズで舞が終わった。へえ、なかなか綺麗なものだ。舞台下では友人らしき女子が二名、さらに三脚を立てて撮影している男の子が約五名、この様子を見守っていた。演技指導するような大人はおらず、どこかほのぼのとした自主サークル風である。あとで編集でもかけて、オリジナルのミュージックビデオを投稿するのだろうか。よく中国の学生生活というと、勉強中心の毎日で日本のような部活動が存在しないと言われる。そんな背景もあって、当人たちはこうして工夫を凝(こ)らし、文化祭感覚の「理想のオフ」を過ごしているのかもしれない。ご興味のある方は、ぜひ中国各地の街角や公園、SNSなどで探してみてください。

曲の出だしを待つ「天女」たち。裏方の男女も含め、みな物静かな印象の子たち。

(3)では唐の李白が残した詩を借りて、一首詠んでみよう。

  武漢の少女 東湖のほとり
  銀簪(ぎんしん) 碧紗(へきさ) 秋風とたゆたう
  群舞(ぐんぶ) 踏み尽くして いずれの処にか遊ぶ
  笑って入(い)るは イケメンの酒吧(バー)か
   *原詩「少年行」 五陵年少金市東 銀鞍白馬度春風 落花踏盡游何處 笑入胡姫酒肆中

唐の時代、長安の北にある五陵の裕福な若者たちが歓楽街をひやかし、エキゾチックな美女の酒場へとなだれ込む。李白さんの有名な詩である。いま、時代劇風の衣装で優雅に踊っていた子たちが、今度は私服で夜の街へ繰り出すのを想像し、替え歌にしてみた。銀色の簪(かんざし)、碧(あお)い薄衣がひらひらと舞っていた様子を添えて。

一九九二年 北京マクドナルドの思い出

(1)唐突だが、ここで少し昔話にお付き合いいただきたい。ぼくが初めて中国街歩きを体験したのは、一九九二年(平成四)七月の北京。時あたかも、現上皇ならびに上皇后両陛下ご訪中の三カ月前のことである。それはちょうど、麦当労(マクドナルド)の記念すべき北京進出直後でもあったようで(ネット上には同年四月開店という記事が残る)、やはり注目度が高かったのだろう。中学生当時のぼくの記録によれば、北京・王府井(ワンフージン)店では、現地のテレビクルーがまるで歴史的瞬間を収めるかのごとく、店内の清掃作業をおごそかに撮影していた。そして店外は、ドナルド人形と写真を撮る大人たち(!)でごったがえしていた。なにせ北京1号店である。流行に敏感な北京市民と地方からの裕福な観光客が、新文化を体験しにこぞって王府井店にやって来たという印象であった。ちなみに、一九九七年刊行の『踊る中国人』という本には、現地麦当労(マクドナルド)が高齢者グループの誕生日祝いに利用される例が紹介されていた。九〇年代半ばでは、まだ庶民的な価格設定とは言いがたく、なんとなれば特別な日に利用したい洋食店というポジションだったことがうかがえる。かようなわけで、四半世紀前の原体験と巷(ちまた)のルポ情報を心にたずさえ、現地社会の大変化を体感したい。そんな理由で、ぼくは中国観光の合間に「麦当労(マクドナルド)詣で」を繰り返している。

1992年の北京・王府井。右上の奥にマクドナルド、下2枚が同店内。
左は王府井。右上は西城区の魯迅博物館付近。右下は同館内のトイレ。

(2)ところで、北京随一の繁華街・王府井はその数年後、陳希同市長による強引な再開発事業で街並みが一変するのだが、九二年当時はまだ社会主義の残り香が感じられた。市場では、店員が客に向かって釣銭や商品を投げてよこすのが当たり前だったし、こちらが先方のおしゃべりを制して話しかけると、決まって「アァーッ?」と物凄い形相で問い返されたり、商品在庫を訊ねてもすげなく「没有(メイヨウ)」すなわち「ないよ」と返答され、しまいには、あっちへ行けと追い返されたりするのが普通だった。今ならそんな衝撃映像が動画サイトで紹介されていそうだけど、当時の新聞・テレビでそのあたりの殺伐とした現場が映し出されることは、ほとんどなかったように思う。そういう異文化に対して率直にツッコむのはいかがなものかという自制・遠慮が働いていたのかもしれないし、あるいは一介の観光客でも触れられる剥(む)き出しの社会事情などに、そもそも大したニュース価値はないと判断されたのかもしれない。ただ、当時子供だったぼくに言わせれば、なるほどね、これはつくづく実際に来てみないと分からない国だとなるわけで、ぼくが今なお中国旅にかきたてられるのも、このような報道と実体験のイメージ乖離(かいり)が元である。

こちらは2019年9月の荊州マクドナルド。すでにタッチパネル注文機が当たり前。

脱構築で新時代の「知中」エクササイズを

(1)どっちみち、専門家や記者たちの渾身の仕事によって、中国全土の有様が必ずしもタイムリーかつ明快に説明されるわけではない。SNSという新たな情報空間が生まれてもなお、お気づきのとおり、市場価値の高い「優位な情報(切り口・解説)」というものが存在する。たとえば中国関連でいうと、政治指導者層の発言や動静のほか、映像映えする先端技術やビジネストレンド、駐在員生活のお役立ち情報、それから夢のような絶景写真に爆笑をさそう面白動画、さらには数多くの同意が期待できる「あるあるネタ」、またはネットニュースに付される二項対立のユーザーコメントなどがおなじみだ。これらの言説は、暗黙のうちに定型化が進んだり、ユーザーから絶えず反応(共感や驚きなど)を引き出したりするなど、情報の送り手と受け手双方に規範や構造を生み出す。なるほど、中国情報の「お題」がいわば定番化し、より必要とされる情報が大量に流通することは素晴らしい。しかし、目先の笑いや共感に固執していると、ぼくらは気楽に「想定内な中国像」をもてあそぶあまり、変わりゆく隣国のリアルと多面性を取り逃がしかねない。中国という「規格外の他者」が存在感を増すいま、そんな懸念も持ち合わせておきたいよねと思うのだ。

(2)観察方法(レイヤー)は断然多い方がいい。そこであえて、頼りない「劣位な情報」にも光を当ててみようというのが本稿の趣旨である。たとえば、旅先の体験や発見をランダムに抽出・言語化してみたり、埃をかぶった古書や忘れ去られたネット記事を参照してみたり、あるいは新旧のマイナーな映像作品を掘り返してみたり。そうすることによって、日々中国で生産される無量無辺な差異・差分を、ぼくたちはもっとワイドな座標で捉えて意識し、生きた言葉で表現して、より多くの視点から分析・議論できるようになると思うのだ。最近いみじくも、民放の深夜番組「ブイ子のバズっちゃいな!」や「月曜から夜ふかし」の中国発信動画が世間の注目を浴びた。ありがちなワイドショー報道や経済ルポの型を外して、中国人若年層の自然体な姿や本音をフラットに映し出したことが、思いのほか日本人視聴者の心理と「同期」したということだろう。さらに、多くの中国人ユーチューバーが流暢な日本語を駆使し、等身大の話題で中国(人)紹介を試みて支持を集めているのも、ここ数年の顕著な傾向だ。実際、気ままな歩行者となって現地の生活範囲をなぞれば、我々が異様なまでに消費者として均質化している場面が多々発見できる。日中両国はいまだに大小のズレを抱えているが、それでいて個人レベルでは意外と似かよった話題・関心を持ち、同じような風景と都市環境に囲まれて暮らすようになったのも事実だ。とりわけ、アニメやゲームなどのエンタメ分野は、若者の共通文化・共通言語だともいえる。だからこそ、都市生活者・消費者の目線から彼我のギャップを「面白がる」方向で、知中(中国を知る)の次元を新たに増設することが可能になってきたと思うのである。あたかも、ぼくたちが他都道府県民の常識なり、気質なりをオーバーに取り上げて、同情・共感・羨望・嫉妬等さまざまな感情をまじえて面白がるように。

(3)もちろん、なにもぼくたちの習慣や情報環境をひと思いにキャンセルする必要はない。覚悟を決めて中国に旅立つこともない。社会の同一性はそのままに残しつつ、たまには日常生活やビジネスを一時中断し、ふだんの情報需要と思考様式を解体しようという提案だ。そうして一人一人が新しいコミュニケーションと学習過程を生成する営みに親しめば、おのずと一個一個の属人的気づきがはずみとなり(いずれ共通のストックとなり)、日本人の中国理解の枠組みが飛躍的に拡張するのではないかと。たとえば、中華通販サイトで書籍・映画の人気作を知るのもいいし、地図アプリで最新ショッピングモールを覗くのも一種のバーチャル旅行だといえよう。いや極論すると、何でも見てやろうと気張って観光するよりも、快適な自宅で見知らぬ中国都市のストリートビューをぼんやり眺める方が、よほど「脱構築」的かもしれない。とにかく、中国という「規格外の他者」を理解するためには、むしろ結論や共感を急がずに、手広く、クールに変化の差分を認識・記述することが現実的であり、重要だとも思うのだ。

(4)批評家の東浩紀氏は『観光客の哲学』のなかで「人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したい」、さらには「『まじめ』と『ふまじめ』の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げたい」と述べて、「観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想」する。現在のぼくには、哲学的見地から本稿を前掲書の内容に接続する力はない。けれども、これまでの自分の経験と感想をとおして、観光客が象徴的に有するいい加減な性質こそ、中国という新時代のモンスターを理解・捕捉するための有効キーとなりうる、そんなふうに考えている。本質に迫らない、通りすがりの大衆による観察が、中国の多面性・流動性および我々との差異を、ランダムではあるが遠慮・忖度なしに均しく照らすだろうと考えるからだ。旅をしている時、ぼくたちは好き嫌いを自覚して、他人にへつらわず行動し、自他の差異に敏感となり、違和感を隠さないものである(職務や責任感に縛られるとこうはいかない)。さらに、リアルな街歩き体験のみならず、各世代の現地在住者・旅行者の見聞記からも、マスメディアがスルーしがちな数多くの現地景物を知ることができる(著者それぞれのユニークな着眼点とこだわり、思い込み等も含めてだ)。思うに、新生メディアや珍しい論点だって、慣れ親しむうちにいずれ陳腐化するものだし、怠惰なぼくたちは簡単に好奇心を枯らせてしまう。視点やイメージを絶えず更新していくというのは、元来誰にとっても難しい作業なのだ。だが、海の向こうには「規格外の他者」が待ちかまえている。決して温情的・理想主義的な他者理解を想定しているのではない。動きを止めない中国を正しく恐れ、賢くつき合うために、より実体に近接した中国イメージを獲得しようと脱線(寄り道)しつづける、そんな誰もが実践・応用可能な「新時代の知中エクササイズ」をここに提案したい。一向に衰えを見せぬ、現地の漢服流行を題材として。

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