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4.足首が、ない!

わたしには足首がない。怖い話ではない。足首があることはある。ただ脂肪に埋まって、一般的な足首のようにキュッと引き締まっていないのだ。

こういう肉に埋まった足首を、世間ではいろいろなモノに例える。象足とか、大根足とか、ハムとか、巨木とか…。見事にかわいくないモノばかりに例えられたものだ。

しかしわたしの母は違った。わたしがまだ小さい頃、母はわたしの足を大変かわいらしいものに例えてみせた。

「あなたのムッチリした足は大型犬の子犬みたいな足ね。だからそのうち、あなたの足もおとなの大型犬みたいにスラっとながーくなるよ。」

大型犬の子犬!いったい世間の誰がそんなかわいいモノで、太い足首を表現してみせただろうか。わたしは母の言葉を思い出すときは決まって、ゴールデンレトリーバーの子犬達が原っぱでヨチヨチ歩いている様子をイメージしてしまう。

わたしにだって女心はあるわけで、多感な時代も、おしゃれしたい時代もあったわけで。自分の足が、世間から象やら大根やらに例えられるような造形をしていれば、特大のコンプレックスを抱いてもおかしくはなかった。

それでも、わたしはあまり自分の足の形を気に病んだことはなかったように思う。スラっとした足を見かけると「いいなぁ、きれいだなぁ」と眺めることはあった。今もある。しかし他人の足への嫉妬に狂ったこともなかったし、意地でもダイエットして自分の足をどうこうしてやろう!と思ったこともなかった。

多感な思春期の頃などは、大きいお尻とか、太い眉とか、ナイーブな性格とか、人並みにコンプレックスを抱えていたものだが、足首のことで悩んだことはほとんどなかったように思う。

母がわたしの足を大型犬の子犬に例えた話は、正直、学生時代にはほとんど思い出さなかった。社会人になって結婚して、旦那に「そういえば、足首がないよね」と指摘されて、本当に久しぶりに母の言葉をしっかりと思い出した。

おとなになって母の言葉を改めて味わってみると、本当に気の利いた例えだったと思う。うまいこと、かわいく例えたものだ。わたしが何歳のときに母が言った言葉だったのか、それすら覚えてないのだが…。はっきり思い出せるくらいだから、当時のわたしも相当気に入ったのだと思う。

そして気がつかない間に、母の言葉がわたしを足首コンプレックスから守っていてくれたのではないかとも思う。足首、肉に埋まってるけど…まぁいいかと、この何十年受け入れられてきたのは、母がわたしに言葉でおまじないをかけてくれたからではないだろうか。

わたしはアラサーになったが、奇妙な事にいまだにくびれのない大型犬の子犬のような足でヨチヨチ歩いている。しかし別にコンプレックスというほどではない。人様に見せびらかすほど立派な足首ではないが、「これはこれでいいか」と思えるようになってきた。丈感のちょうどよい靴下を履かせてあげるとかわいいのだ。

以前、電話で母に大型犬の話をしたら「そんな事言ったっけ?覚えてない」と言っていたし、わたしに足首がないと教えたら「うそ?今度見せて!」と笑っていた。我が家のまじない師は忘れっぽいらしい。

わたしの娘の目の周りには、生まれつき小さな白いできものが散らばっている。稗粒腫というらしい。わたし譲りだ。娘には「あなたは生まれつき、目の周りにお星様をつけてるんだよ」と教えている。大型犬の子犬のように気が利かなくて恐縮だが、わたしから娘への贈り物だ。

ライライ

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