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5.子守とキラキラの通り雨

今日はちょっといつもと違うスケジュールで、なんやかんやあって、公園で子ども達が遊ぶ様子を見守ることになった。蝉が鳴き始めた初夏、天気は曇りがち。肌に湿気がまとわりつくが、暑すぎた先週が嘘のように過ごしやすい夕方だった。

普段なら、もう小学生の上の子はひとりで遊びまわり、下の子はまだギリギリ幼稚園に預けていて、わたしは家で仕事している時間だ。

なんやかんや、と言うのは…下の子が今日は療育相談の日で、お迎えがいつもより早い昼過ぎだったのだ。療育から帰るとちょうど上の子が友達と遊びに行くところで、それを聞きつけた下の子が「一緒に行きたい!」とはしゃぎ出した、という次第である。

子ども達が友達と遊ぶ様子を、遠くから見守るなんていつぶりだろう。上の子が幼稚園の頃は、未就学の下の子と一緒に、幼稚園帰りに公園で遊ぶのをイヤと言うほど眺めていたものだが。

子ども達を眺めている間に、ポツポツと夏の通り雨が降り始めた。ベンチに座ったわたしのズボンにポツポツと雨の染みがつく。

子ども達は…子ども達は雨など気にも留めずに遊んでいる。遠目に見ても髪がちょっと濡れているようだから、雨に降られてはいる。しかしちっとも気にせず遊んでいる。

ぴょんぴょん跳ね回ったり、話し込んだと思ったら走り出したり、ワッと盛り上がった次には、手持ち無沙汰そうな顔をして見せたり。

何をしているんだ…説明がつきそうにもないが、遊んでいる。わたしが「何してたの?」と聞いたら、口を揃えて「遊んでた!」と答えるだろう。

わたしがたった今ひとりで、例えば下の子のお迎えのために自転車に乗っている時に、通り雨に降られていたとする。わたしは顔に降りかかる雨にうんざりして、跳ね上がる湿度にげんなりしていただろう。その時きっと雨粒は無機質な色で、街並みは薄暗いだろう。

しかしどうだろう、この公園で子ども達に降りかかった通り雨は、瑞々しい輝きを放っていた。子ども達に気づかれているかも疑わしい雨粒は、雲間から差した西陽でキラキラ光っている。それに応えるように子ども達の瞳も、小川に泳ぐ小魚の腹のようにチカチカ光った。

わたしがその光景をボーッと受け止めている間に、通り雨は止んで、西陽は分厚い雲に遮られた。ふと見ると、子ども達の髪はさっきよりビチョビチョになっている。もう雨のせいなのか、汗のせいなのかわからない。

夕方の町内放送が流れて、子ども達は家に帰る時間になった。子ども達と帰り道を歩きながら、わたしはまだボーッとしていた。

子ども達は毎日、あんな瑞々しい時間を過ごしているのか。わたしは子ども時代が美しいのは、遠い思い出の中にあるからだと思っていた。しかし今日、瑞々しく美しい子どもの時間は確かにわたしの目の前にあった。

子ども達はボーッと歩いているわたしの前を、家に向かって走っていく。「危ないよ」と制するわたしは、自分の身体の大きさがなんだか場違いな気がしてまたボーッとした。

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