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もう一つの鯖街道・東熊野街道/朴の葉(ほうのは)寿司が来た道

毎年恒例の朴の葉寿司。
今年も一日掛かりで作った、200個近く。(6月2日)

◆朴の葉(ほうのは)寿司について

奈良県吉野郡の山間部では、柿の葉の代わりに朴の木の葉を使って 「朴の葉寿司」が作られている。

奈良名物として堂々たる存在の 「柿の葉寿司」と違って、間違いなく失われゆく資産である「朴の葉寿司」の記録を残したいと前から思っていた。

日本遺産 吉野【森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ】の58個の構成文化財の中に、53 朴の葉寿司 58 柿の葉寿司 の記載がある。


毎年6月頃になると、吉野郡下市町の中でも山間部にある母の実家から朴の葉寿司が送られてきた。
そして天川村出身の夫と結婚したので、今度は義母が毎年、朴の葉寿司を送ってくれた。

だから、私にとっては「朴の葉寿司」は当たり前の存在で、むしろ一般に認知されていないのを知らなかった。

が、義母が急逝し、突然もう食べられなくなった。

みんな無性にその味が懐かしかった。
それで、翌年から叔母(義母の妹)や夫の姉妹たちと一緒に朴の葉寿司作りが始まった。

突然逝ってしまったので、口伝のようなものもなく、味覚だけを頼りに再現するしかない。

昔は村では必ず初夏に作って親戚に送ったものだが、今では高齢化と少子化で、村の人でもほとんど作らなくなったと聞いた。
「朴の葉寿司」のエバンジェリスト的使命感が発動する。

それから、私は「朴の葉寿司」のことを調べまくった。

なぜ、柿の葉でなくて朴の葉なのか?
由来はなんだろう?


そして、山の中で、なぜサバが手に入るのか?

調べているうちに、「東熊野街道」に出会った。

『月刊大和路ならら』で的場輝佳氏が書いている。

海から内陸部へ海産物を運んだ道といえば、福井県の小浜と京都を結ぶ、通称「鯖街道」が有名ですが、紀伊半島にも同様のルートがありました。起点は熊野や新宮など南紀の漁村で、終点は桜井市や下市町にあった魚市場です。

月刊大和路ならら 2021年6月号より


氏によると、ルートは大きく分けて2つ考えられ、

1つは北山川沿いに行く最短ルートの東熊野街道。熊野から下北山村、上北山村を通り、伯母峰峠を越えて吉野川沿いに川上村へ入り、吉野の宮滝から多武峰または竜門を越えて桜井へ至ります。

月刊大和路ならら 2021年6月号より


地図でつなげてみると,このようになる。


終点と言われる桜井市の魚市場跡。

今年5月に聖林寺の十一面観音が大御輪寺から運ばれるルートを辿るウォークに参加した時に、桜井市の魚市場跡を通った。

月に何回か市場が開かれ、大変な賑わいだったという。
なかでも有名なのは熊野鯖だったとか。
それがこの道を通ってきたのだ。


水揚げしたサバの内臓をとり、浜塩をして、熊野の漁師たちが山道を越えて吉野へと運んだ。

なぜ熊野の漁師が行商に来たのか?

それには、紀州の殿様が高い年貢をかけたので,その工面に吉野へ売りに来たという説が有力だ。


吉野の名産品である柿(渋柿)の葉にはタンニンが含まれ防腐剤の役割を果たすので、合体して柿の葉寿司が誕生したと考えられる。

そして、柿の木が育たない寒冷の山間部では、朴の葉が使われるようになったのだろう。

吉野へ着いたサバには更に追い塩がされる。

柿の葉寿司にする塩サバの処理は大きく分けて①塩締め系②酢締め系の二通りあるが、昔からのやり方は①である。

入手した塩サバにさらに塩をして、1週間ほどおく。
まるで、サバの漬物??

調べていくと、点と点がつながって、線となる。
パズルのピースがハマったような感じ。

もう一つの鯖街道。
母から母へと受け継がれた、守り続けたい味。



朴の葉寿司(柿の葉寿司)の作り方はこちら。

#鯖街道
#柿の葉寿司
#奈良
#東熊野街道

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