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フェノロサ記念講演会 & 彼が見惚れた聖林寺・十一面観音追体験記

最近フェノロサ関連に続けて参加したので、まとめて書いてみたくなった。

フェノロサは1853年アメリカマサチューセッツ生まれ。1878年にお雇い外国人として来日。当初は美術が専門ではなかったが、日本美術の魅力に魅かれ、徐々に日本美術品の保護に関わるようになる。

1.フェノロサ記念講演会

1888年6月5日はフェノロサが奈良市の浄教寺で公演を行った日。
講演タイトルは『奈良の諸君に告ぐ』

奈良の諸君に告ぐ!

明治二十一年六月五日 アーネスト・F・フェノロサ
淨教寺本堂での講演要旨 通訳 岡倉天心

第一、 美術及び宗教に関する奈良と羅(ロー)馬(マ)の比較
第二、 奈良と中央大陸の関係
第三、 古物活用の要訣
第四、 美術の真価
第五、 古物保存の注意

浄教寺HPより

『…今日、この奈良に存在せる所の古物は、独り奈良一地方の宝のみならず、実に日本全国の宝なり。…世界においてまた得べからずの至宝なり。故に余は信ず。この古物を保存護持するの大任は、すなわち奈良諸君のよろしく尽すべきの義務にて、また奈良諸君の大いなる栄誉なり…」「奈良の諸君に告ぐ」より引用

博士は岡倉天心と共に荒廃する仏像・寺院の復興と発展に力を注いだ。

浄教寺HPより


淨教寺では毎年この時期にフェノロサ記念公演会が行われている。
今回は来年の大阪万博に合わせて万国博覧会の歴史がテーマで、普段あまり焦点の当たらないテーマだけに、新鮮で興味深かった。

中でも1873年のウィーン万博の話。
日本政府として初の正式参加をし、以後日本ブームが沸騰したと聞いてびっくり。西欧ではそんな前から日本は人気があったのだ。

また、1868年明治政府が出した神仏分離令が廃仏毀釈へと発展し、フェノロサがいなければ日本の仏像はすべてぶっ壊されていたみたいに思われていることについて。

実は政府も1871年に古器旧物保存方、1872年には壬申検査をして文化財保護の重要性は認識していた。
フェノロサの来日(1878年)以前の話。

だから日本政府が何も手を打たずにいたのを、フェノロサが救世主のように現れて、すべての破壊を食い止めたというのは思い込みすぎだ。

とは言うものの、やはりその功績は大きい。
彼によって封を解かれ、光を当てられた仏像は沢山ある。奈良では法隆寺の救世観音と聖林寺の十一面観音が有名。

2.聖林寺十一面観音像の軌跡を歩いて辿るツアー

という訳で、むりやり聖林寺の観音様の話に持っていこう。

聖林寺の十一面観音像は大御輪寺から聖林寺まで大八車で運ばれたという逸話がある。

1868年神仏分離令が出て、大神神社の神護寺であった大御輪寺は大直禰子神社と名を変えた。神社となったので、仏像は置いておけない。それで、御縁のあった聖林寺に預かってもらうことになった。


その軌跡を同じ日に歩いて辿るツアーが催行された。

1868年5月16日に運ばれたのは確かだが,詳細な経路の記録はないので、あくまで推測ルートとなる。

大直禰子神社 →<上街道(伊勢街道)> → 出口橋 →<多武峰街道>→ 談山神社大鳥居 → 聖林寺

まず、大直禰子神社での積み込みを想定して、観音様の気持ちに寄り添ってみる。

大八車ってこんなんらしい ↓

文化財オンラインから


どうやって積んだんかな?
毛布とか布団とかで巻いたんかな?
と、色々憶測が飛ぶ。

大神神社の一の鳥居横の上街道を行き、大和川に掛かる出口橋を渡ろうとした時、雨が降り出したとか。涙雨か?

出口橋

上街道が多武峰街道に変わるところ、横大路との交差点を渡るとすぐに桜井魚市場の跡を示す石標がある。実際に熊野の鯖が売られていた。
観音様とは関係ないが、この情報は私にとっては、思わぬ収穫だ。(後日、記事を書く予定)


桜井魚市場の石標

多武峰街道を寺川沿いに登る。
この辺りから、景色が一変して豊かな自然に囲まれる。
そして、坂がだんだん勾配を増してくる。

何人で運んだかは知らないが、重たかっただろう。
観音様は木芯乾漆像なので、金綱仏よりは軽いと言っても、坂になると厳しくなるはず。
観音様も凸凹の山道を運ばれるのは、揺れたりして痛かっただろうな。

しばらく行くと、前方に立派な鳥居が見えてくる。
談山神社(談山妙楽寺)の大鳥居だ。
こんな所にあるとは知らなかった。

談山神社大鳥居

そこから談山神社まで、五十二町石が一町毎に建っている。

五十二町石


由緒ある酒蔵

聖林寺橋を渡ると、いよいよだ。


聖林寺橋

最後に、とどめの急坂を登るとようやく聖林寺の山門。
観音様、やっと着きましたよ!

とりどりの紫陽花が出迎えてくれた。

聖林寺

観音様は新しくなった免震機能付きの観音堂にいらっしゃった。
奈良時代の仏像がこんなにちゃんと残っていることに感激を覚える。
大きな欠損もなく運ばれたのは奇跡か?民の信仰心の厚さか?

明治20年(1887)、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現しました。

フェノロサはその美しさにたいそう驚き、門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と述べたと伝えられています。

本堂脇の厨子は、十一面観音のためにフェノロサらが寄進したもの。内部に滑車を付け、火事などいざというときに外に運び出せるよう可動式になっており、文化財保護施設の魅とも言うべき工夫がなされています。

聖林寺HPより

フェノロサを魅了し、1951年第一回の国宝に選ばれた。
トーハク(2021年)、ナラハク(2022年)で多くの人を動員した優雅なお姿。


フェノロサは1890年に帰国後、ボストン美術館東洋部長となり、日本美術の紹介に尽力した。
1908年に心臓発作で死亡。生前からの希望により、受戒を受けた園城寺の子院法明院に葬られた。


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