マックで隣に座った彼ら

マックで屁をこいた。それもそれなりに大きな音で。やりたくてやったわけではない。本当は下腹部で存在を主張する尿意ならぬ屁意を、尻の筋肉の繊細な調整によって音を殺して発散させるつもりだった。しかし、深夜の食欲に任せてついさっき注文したものはポテトLで、彼らは文字通り風穴を開けようと、私の少しの油断を待ち構えていたのだ。

店内に響く間延びした破裂音。それは閉店時間が近づき人がまばらな店内のざわつきに、振り返る者もないまま消えていくかに思われた。いや、それは単なる私の願望だった。そして、願望とは多くの場合かなわないものである。私が(しまった)と己の失態を恥じると同時に2つ隣の席に座る1組の男性客が大きな声で笑い始めた。もしかしたら、偶然そっちでも話が盛り上がったのかもしれない。そんな風にも思ったが間もなく聞こえてきた彼らの会話はその可能性を吹き飛ばしてしまった。
「なんにも周りのこときにしないじゃんwww」
「ガニ股で座る女とかいるよねwww」
音に対する直接的な言及はなかったが、タイミングを考えても音を念頭に会話が行われていることは明らかだった。私は何事もなかったかのようにスマホに目を落としながら、内心は恥ずかしさで顔から火が出ていた。平常心を保ち5秒前と変わらぬ素振りでスマホを操作する私にかまわず、男たちは会話を続けた。
「無敵だな~」「実家かよ」

事ここに至り、私の内面にはとうとう恥ずかしさとは別の感情が湧き上がってきた。彼らのツッコミは、確かに恥ずかしいが一つひとつ言い得て妙なのだ。屁からガニ股を連想し、さらには「実家」という屁と無関係なワードで状況をたとえる。このような彼らの表現のセンスからは、屁をこくという行為に対する嘲笑ではなく、身近に起きたイベントを純粋に楽しむノリの良さが感じられた。そう思うと、私の心は少し軽くなった。私は嘲笑されたのではない。エンターテイメントの一部になっていたのだ。というのは言い過ぎにしても、冷静に考えて、ただの隣に座っただけの人間に対して、その行為の賢愚を判断するほどの関心を向けているわけがない。

私が普段、世界から感じとっている敵意や嘲りなどというものは、彼らにとっては日常で絶え間なく起こるイベントに対するリアクションに過ぎない。この真実を悟ったことで、明日の私は少し楽に生きれる気がした。

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