ご近所ミステリー13 ゴーストタウン

 あらすじ:
  山脇幸作は離婚してこの町の貸家に引越ししてきた。そこは高齢者が多く活気のない地区でもあり、夜などゴーストタウンと思う事さえあった。そんな地区で宮之原和枝と知り合うが、彼はいつしか事件に巻き込まれていた。 
  ご近所ミステリー第十三弾です。読んで頂ければ幸いです。
※ご近所ミステリー第一弾から第十一弾は「#ミステリー小説部門」にあります。

 山脇幸作は妻と別れてこの地区の貸家に移り住むことになった。もともと小説家志望ではあったが、たまたま投稿した作品が大賞に選ばれたことで、小さな頃から漠然と抱いていた事が現実になったような気になった。実際そのことがきっかけになり、今まで勤務していた商社を三十前で退職し、執筆に集中するようになった。初めの頃は妻も彼の才能を信じていたが、その後は出版にさえこぎつけない彼に見切りをつけ出て行った。
 ショックだったがそれほど引きずることは無かった。こうなることを彼はどこかで予感していたのかも知れない。小説家としてやって行く事の難しさは彼自身が一番よく知っていたとも言えるのだった。
 独り身になった彼はまず不動産屋に行き、妻の匂いのしないほどの距離にあるアパートを探した。多少の蓄えはあったので、近くに保育園や小学校の無い場所というのが唯一の条件だった。あの動物的な叫び声だけは勘弁してもらいたかった。結果、以前は高級住宅地として多少知られていたこの地域の貸家に引越しすることにした。
 近くに保育園や小学校などなくホッとしたが、静かと言うより静まり返っているのだった。目の前の広い道路を車は通り過ぎるが、日中はほとんど人を見かけることは無かった。以前は賑やかで活気のある界隈だったのだろうが、やたら空き家が目に付くのだった。団塊の世代と呼ばれる人達が、高齢になり次々と他界していることもあるのだろうと幸作は思ったが、夜などそれぞれの家から灯りは漏れているものの、ゴーストタウンと思う事さえあった。ただ真夜中、どこで鳴いているのかしばしば犬の激しい鳴き声が響き渡るのだった。そのうち慣れると思ったが、神経質な幸作はその鳴き声がすると反射的に目を覚ました。一度目を覚ますと眠れない幸作はそんな時、二階のべランダに出て真っ暗な空を見上げながらタバコをふかし、気持ちを落ち着かせるしかなかった。地区内であまり波風を立てたくはなかったのだ。

 引越ししてきて数日が経った夜、呼び鈴が鳴った。誰かと思って戸を開けると、八十を越えたような長身の男性が立っていた。彼は舐めるように幸作を見ながら
 「こんばんは。私はここの自治会長をしている長野井という者だが、おたく、最近ここに来たんだよね。この家の大家さんから連絡が入りましてね。おたく、山脇さんとおっしゃる?」
 「ええ。山脇幸作です。初めまして」
といぶかしそうな表情を浮かべて幸作は言い、自治会長の言葉を待った。彼は、自治会費やゴミの日などの基本的なことを言った後、ここの住民は高齢者が多くなっており、この地区のリサイクル推進委員になってもらえないかと言った。最初から拒否するのも友好的でないと思い幸作は承諾した。自治会長は礼を言った後
 「昔は人が多かったんだが、この町も」
と言いながら少し足を引きずりながら帰って行った。

リサイクル推進委員の活動とは毎月最初の日曜日、各家庭から出される新聞や雑誌、古着等を軽トラックで回収し、その後分別し、回収業者に買ってもらうというものだった。
 その日になると幸作は七十過ぎの老人が運転する軽トラックにもう一人の老人と一緒にそれぞれの家の玄関前に出されている新聞や雑誌などを軽トラックの荷台に乗せるのだが、空き家が多いと言ってもこの広い地区にあってはかなりの重労働で、分別が完全に終わるのは正午過ぎになった。
 ただ、奇妙に思ったのは三十過ぎの女性が幸作らにずっとつきながら、手伝う訳でもなくただ難しい顔をして各家庭から出される物を見ながら何も言わずについてくるのだった。そして回収後、分別する様子を一瞥しながら消えて行った。リサイクル委員の他の二名は時折その女性にうんざりとするような視線を投げていた。だが言葉をかける事はなかったので、幸作もこの女性の事を訊くのも憚ったが、その女性が宮之原と言う名前だと聞かされた。
 
 ところで、彼の自宅である貸家にも風呂はあったが、この地区内に銭湯があったので、週一度は通うことにした。そんなある日、浴槽に浸かっていると後ろの方で六十前後の少なくなった髪を茶色に染めた男ときれいに髪が無くなり銭湯の蛍光灯の光を反射させている男がボソボソ話しているのが聞こえて来た。茶髪の男は
 「昨晩の救急車はどこか知ってるかい?」
と言った。相手の禿の男は
 「夜中トイレに立った時見えたんだけど公民館の隣りの家の爺さんじゃないかな。この間見かけた時は顔が土気色だったよ」
と言った後
 「それに先日は、あの近くの家の婆さんが一時行方不明になって警察の放送車が何度も巡回してうるさかったよ」
とも言っていた。そのような会話を耳にしながら改めてうすら寂しい町に引っ越してきたと思うのだった。

 その数日後、彼はホームセンターの家具売り場にいた。独り者なのでそれほど家具は必要ないのだが、それにしても室内が殺風景なので、応接セットを購入するつもりでいた。だが、店員がいなくて困った幸作は家具コーナーにあった呼び出しブザーを押した。
 するとすぐに女性店員が幸作の元にやって来て
「いらっしゃいませ。お待たせしました」
と明るい声で言った。振り返るとリサイクルの軽トラックについてきていたあの女だった。だがそのにこやかな表情は幸作が先日目にしたあの女とは全くの別人のようだった。幸作は驚いて言葉が出なかった。
 「あっ、あなたあの貸家に最近引越ししてきた人ですよね、リサイクル推進委員として先日の日曜日も作業されてましたよね」
「そうです。早速活動してますよ。私、山脇幸作と言います」
「いやだ、改まって。私、宮之原和枝と言うの。地区にある理髪店の西隣りの小さな家に住んでるの。今日は何か家具を購入予定ですか?」
「殺風景なのでちょっとした応接セットが欲しいと思ってね」
「お手伝いしましょうか?私、こう見えても家具コーディネーターの資格を持ってるんですよ。今度の日曜ならセッティングのアドバイスに伺ってもいいですよ」
と楽しそうに和枝は言った。幸作は和枝の本当の姿が分からなくなった。
 日曜日、和枝は幸作の家に本当にやって来た。
 彼女は、すでに配達されていた家具三点セットをダイニングや食器棚と調和するように配置し、幸作は彼女のアドバイスに従い室内を整えた。二十分程で完了し、幸作はダイニングで彼女にモカを出した。互いに言葉を探しているかのように少し沈黙があった。彼女はモカには口をつけず幸作の目を見ながら
 「私って魅力ないのよね。いつも無愛想で険のある目をしているし誰も私に寄って来ないの」
と複雑な表情で呟いた。幸作は慌てて
 「そんなことは無いですよ。笑顔が素敵ですよ」
と正直に言った。彼女はにっこり微笑みながら 
「いいんですよ。無理しなくても」
と言ってメールアドレスを訊くとすぐに帰って行った。幸作はきれいに整った室内を見ながら<不思議な日曜日だったな>と思った。だが、彼女がこの家に出入りするところを誰かに見られていたら近所中の噂になる気がして不安になった。
 その不安は的中した。
 その数日後、銭湯に行くと、先日老人の話をしていた茶髪と禿の男二人が洗い場で何やら話しながら体を洗っていた。しばらく浸かってから幸作も体を洗うために湯船から出た時、足元に手桶があったので足でそっとどけたのだが、腰掛に座っていた茶髪が
 「おい!人が使っているのを足でどかすなんてあるか、おい!」
と言って幸作を睨みつけた。その時、茶髪は幸作を認識したらしく
 「あっ、おたく、最近引越しして来た人か?」
 「え、そうです。山脇幸作と言います。先日もお風呂一緒になりましたけど、気づきませんでした?」
 「気づかなかったよ。それよりさ、おたく、噂になってるよ、あの宮之原と。で、もうやったのかい?」
と茶髪は手の指を卑猥な形にし幸作の目の前に突き出して訊いた。気分が悪くなった幸作は彼らを無視して
鏡の前に座り体を洗いながら、「私って魅力無いのよね」と言った和枝の言葉を思い出していた。
 風呂を出る時、振り返ると茶髪は浴槽の中で数人の老人に囲まれ何やら楽しそうに話していた。

 幸作がこの地区に引越しして二カ月近く経った。当初は妻からの呪縛から逃れ命の洗濯をしながら、自由に小説を書いていたが、やはり才能が無い事を悟ってからは執筆は趣味になっていた。ただこのゴーストタウンの中ではこのまま埋没しそうな気分に襲われることもあり、アルバイトなどして働きたい気分になっていた。以前、商社に勤務しておりエクセルを自在に操ることも出来たので、どこでもやってゆく自信はあったが、がむしゃらに働くつもりはなかった。
 そこで新聞のチラシに入っていた駅前にある生命保険会社のアルバイト募集に応募した。若い事もあり幸作は簡単な面接で採用されることになった。ただ、立場上は非正規社員だったが、勤務状況により正社員になることもありますと面接担当者は一流の商社名が明記されている幸作の履歴書を見ながら申し訳なさそうに言った。
 彼の仕事はやはりエクセルを使ってグラフの作成や統計や決算の打ち込み等で単調だったが、それなりに刺激にもなった。ただ、支社なのでそれほど大きくはなく七、八名の職員と非正規の数名からなる会社で、殆どが女性社員で、数名いる男性は殆どが六十前後で若い男性は彼くらいだった。
 そんな中、ふくよかな体の五十すぎの杉宮悦子が何かと彼に話しかけるのだった。彼女は数年前に大阪から引越ししてきたようで、彼女の大阪の言葉がやたら室内に響き渡っていた。彼女は正社員で外交から会計まで幅広くやっており有能な社員だった。また、いろいろと話をしながらしっかりと周りを観察しているようだった。そのためか、口数は多いが話す内容は的確で彼女の言葉にズレは無かった。それに誰に対してもあけすけに話しているように見えるが、肝心な事は一切言っていない。だから彼に何かにつけて話してくる悦子だが、彼女が既婚者か独身なのかなどプライベートな事はほとんど知らなかった。
 そんな彼女は、幸作が何か考え事をしていると
 「今日はなんか機嫌が悪いみたいやな」
と言ってジャブを打ち込んで彼の反応をしっかり見ていた。そして幸作が独り者と知ると、
 「そらさみしいな」
と言っては意味ありげにじろっと見る。また、事務所で幸作と二人きりになった時
 「あんたから見ればおばちゃんやろけどウチも女や。誘ってもええんやで」
とも言った。
 
ある時、悦子が
 「見て見て、おもろいで。たまたま見てたらこんなユーチューブあったんや」
と言って周りの社員に見せていた。悦子が幸作のところに来て
 「この可愛らしいペット犬同士がえらい勢いでケンカしてるんや。こんなん撮影してんとケンカ止めささなあかんのにな。それにこのユーチューバー、この続編も配信してるようやで」
と言うと、そばにいたどことなく余貴美子に似ている望月沙耶という三十前後の女性社員が
 「どういう訳か今このような可愛いペットの犬や猫が本気でケンカしているユーチューブが流行ってるそうですよ」
と言った。
 「ほんまかいな、えらいもんが流行るもんやな」
と悦子は本当に驚いているようだった。幸作はその動画をじっくり観ながら、人間の心の奥底に潜む残酷な心の現れのような気がした。思い切り可愛がりながらも、どこかしらイジメたくもなる複雑な人間の心理を呼び起こさせる悪趣味な動画のような気がした。だが、幸作は激しく噛みつき合うそのペット犬の鳴き声をどこかで聞いたような気がした。
そのスマホからふと目をそらすと望月沙耶の豊満な胸が目の前にあった。彼はさっと体を引いた。何となく沙耶の視線が気になり顔を上げると沙耶と目が合った。彼女はじっと彼の動きを観察していたのかも知れなかった。
 その沙耶だが、幸作は奇妙な光景を目にした。
 数日後のことだが、終業時間になり帰宅の用意をしている時、悦子から駅改札のそばにある郵便ポストに投函するよう頼まれ、駅構内に入ると一足先に退社していた沙耶が目の前を歩いていた。上り下りのどちらのホームに行くのかと思っていると、沙耶を待っていたのか和枝がどこからともなく沙耶に近付き、何やら封筒のようなものを手渡した。二人は言葉を交わすわけでもなくそっと離れ、改札を出入りする多くの人々に紛れて消えて行った。いつも職場で見ている沙耶だが外で見る沙耶は少し眩しい感じもした。だが、それにしても二人の様子は意外と言うよりどことなく異様な感じがした。
 そればかりでなく、どうして和枝が生命保険会社の沙耶と繋がっているのか幸作には不思議だった。
 翌日、職場で沙耶と顔を合わせても男好きのするグラマラスな体にグッとくる以外、沙耶に異変を感じる事はなかった。
ただ最近気付いたことだが、悦子と沙耶にはどことなく距離があるように思われるのだった。悦子の大阪弁も沙耶に対してはどことなく気持ちが入っていないのだった。つまり素っ気なかった。
 
 幸作は休日の日課である散歩していると、しばしば小説のヒントを得るのだった。そんな夜はそのヒントを基にして小説を書く事を忘れなかった。そんな夜、机に向かっていると和枝から会って話がしたいとのメールが入った。いい機会でもあったので幸作は快諾のメールを送信した。
 幸作は指定された場末の喫茶店で、モカを味わいながら和枝を見ていた。不機嫌そうな顔で来るのか陽気な顔で来るのか考えていたが、目の前の和枝はそのどちらでもなくどことなく怯えた表情だった。
 「私、数年前離婚してね、今一人暮らしなの。やっぱり寂しいので以前からペット犬を三匹飼ってるんだけど、その鳴き声がうるさい、安眠妨害だ警察に訴えるぞなどの脅迫電話が非通知でかかって来るし、ついこの間は動物虐待という犯罪行為だからやめろと印刷されたメモが郵便受けに入れられてたの」
 「それで?」
 「どうしたらいいか相談に乗ってもらいたいの」
 「さ、どうしたいいんだろうね?」
と言うと
 「他人事ね」
と言って和枝は急に無表情になった。
 「そうじゃないけど。近所迷惑になっている事も考えないとね」
さらに「あんなユーチューブを流してカネを稼いでいるのは良くない。動物虐待だよ」と言いたかったが、この場では堪えた。ずい分と長い沈黙が続いた。こんな光景を近所の住民に見られたら、どんな噂が立てられるか知れたものじゃなかった。それに銭湯でしばしば見かけるあの茶髪らを喜ばせる事になるだけだと思っていると
 「実は今日話したいことはその事じゃないの」
と和枝は意外なことを言った。
「あの・・・ペット犬はとても可愛くて愛おしいと思うんだけど、どういう訳か、夜など急に可愛がってるペットが憎いと言うか、いたぶってやりたくなることがあるの。三匹を一つのケージに詰め込んでやったり、その三匹の間にチーズの塊を一つだけやってみたり、霧吹きで水をかけてみたりもう自分でも止めることが出来なくなるの。少しして落ち着いてくると、もう自分が嫌で嫌でたまらなくなる。とにかく自分の感情をコントロールできなくなるの」
 「でもその様子をユーチューブで配信してるんだろ?」
 「どうして知ってるの?」
と和枝は驚きの表情で言った。
 「職場でそのユーチューブを見たよ。可愛いペット犬が激しく喧嘩させられている酷い動画だった。その激しく吠え合う鳴き声は夜中聞こえてくるあの鳴き声に似ていると思ったよ」
 「私、自分の頭が壊れそうになると、そんなユーチューブを配信して動物虐待でもいいので逮捕してもらって、自分を止めてほしいと思ったの」
と和枝はビックリするようなことを言った。さらに和枝は
「だからこの地区で鼻つまみになっているのも分かってるの。山脇さん、いつも私のそばにいてもらえないかな?」
 「ええ?」
と、突拍子もない事を言われ幸作は奇妙な声を上げた。
 「そりゃ、無理だよ」
とすぐさま幸作は言った。「オレは君の看護士じゃないんだ」と言いたかったが、流石に堪えた。気まずい沈黙が続いた。そこで
 「君はオレが働いている生命保険会社の望月沙耶っていう女性と知り合い?」
と話題を変えた。和枝は思いのほか驚いたようだった。幸作は和枝の返事を聞く前に 
 「先日、駅の改札付近で君が意味ありげに望月沙耶と何かしているところを見かけたんだよ」
と言ったが、和枝はどことなく思いつめたような表情になっていた。
 「君は沙耶に何らかの情報を提供してるんじゃないのか。あの様子はどう見ても君と沙耶は関係があるようにしか見えなかったよ」
 それには直接触れないで和枝は意を決したように口を開いた。
 「私ね、以前、老人介護施設で働いていたのよ。沙耶もその職場にいたの。でも私達はほぼ同時期にそこを辞め、私はこの地区のいろんな活動をボランティアでしてるの。独居老人訪問や老人宅の清掃や買い出しなどボランティアでやっていて、彼女は生命保険会社に勤務したのよ」
 「それで君はこの地区でのいろんな活動を通して知り得た老人の情報を沙耶に提供していたのか。リサイクルの回収についてきていたのもそれぞれの家の状況を把握するためで、要するに彼女に老人の個人情報を売っていたのかい?そうならそれは犯罪だよ」
 「分かってる。でも聞いて。私は介護施設でお年寄りにとてもやさしい気持ちで仕事をしてたの。ホントよ。でも時々、急にか細く何の抵抗も出来ないお年寄りに対して残酷な気持ちがムラムラと湧いてくることがあったの。ある時、私はそんな残酷な気持ちを払い除けようとしたんだけれど、その気持ちに負けそうになり頭が破裂しそうになった私は着ている白衣を引きちぎりながら廊下を走り気を失ったらしいの。その時、私を庇ってくれたのが沙耶だった。私は責任を取って施設を辞めたんだけど沙耶も辞め、それ以来彼女とはさらに親しくなり、私の心が不安定になった時には彼女が私を支えてくれた。その代り私は彼女の頼みは何でも聞くようになった。だけど最近、彼女は変に変わってきた」
と言ったが、思わぬことを耳にしてしまった幸作は慌てて言葉を探していると、
「彼女はあなたと同じ生命保険会社にいるけど、実際、いろんな老人介護施設や葬儀会社などにも繋がりを持ってて」
と和枝は言ったが言い過ぎたと思ったのか言葉を噤んだ。奇妙な沈黙だった。和枝は明らかに口を滑らした。

 幸作は一週間ぶりに銭湯の湯船に浸かっていた。そばには茶髪と禿の男が数人の常連と何やかんや話をしていた。茶髪は絶えずたわいもない話でも面白おかしく話し笑わせながら、周りの老人からいろんな情報を引き出していた。その茶髪が幸作と目が合うとわざとらしくニヤリとしながら
 「いよー、色男。この間駅で太った関西弁のおばさんと楽しそうに話していたな」
と言うと、禿の男は
 「いよー、後家殺し。あの時はイイコトしてきた帰りだったのかい?」
と囃し立ててきた。
 相手にはしなかったが、実は彼らの言う通りだった。幸作は彼らに駅で見られた一時間程前、ホテルに悦子といた。しかも、そのような関係が少し前から続いていた。
 「兄さんはこの地区でまさに噂の男だよな。よくぞいらっしゃいましたよ、だ。年寄りばかりの死んだようなこの地区に活気を与えてくれたんだからな」
と茶髪は皮肉の笑みを浮かべて言った。

 数日後、夜、幸作に二人の訪問者が来た。警察官だった。幸作は彼らの一人にいきなり
 「あなたはこの地区に住む宮之原和枝と知り合いだな?」
と聞かれ、宮之原和枝がいわゆる特殊詐欺グループの情報屋だという事を知らされた。幸作もその一味と思われており警察署で執拗に取り調べられた。要するに引っかかりやすい老人の情報を和枝と組んで指示役である自治会長とかけ子である望月沙耶に流していたのではないかと言う疑いだった。
 警察によると確かな情報がもたらされており、幸作もそのグループの一員と疑われたが、沙耶と和枝の証言で詐欺には関係しない事が明らかになり無罪放免になった。
 新聞には「特殊詐欺グループ、近隣の高齢者を狙い撃ちに」と言う見出しで地域版に報道されていた。それによると「警察は指示役である自治会会長の長野井義春、かけ子である他市に住む孫の望月沙耶、協力者として野元一太それに情報屋である宮之原和枝を地区内の高齢者を対象に介護施設や生命保険それに葬儀などがセットになっている架空の会員権の話を持ち込み、契約金と称してカネをだまし取った容疑で逮捕した。なお宮之原和枝には動物虐待の容疑も視野に入れて調べる模様」とあった。
 
 翌日、生命保険会社のロッカールームに幸作は悦子と対峙していた。悦子は
 「あんた、魚心あれば水心やで」
といきなり言った。幸作はその意味がよく分からなかった。その空気を察したのか悦子は
 「要するに持ちつ持たれつや、私の誠意に応えなあかんやろ。私はあんたにいろいろしてあげてたやろ」
と言った後、意味ありげに彼の目を凝視しながら
「それに何度も私の体に乗ってあんたも楽しんでたやんか。せやけどあんたは私に何をしてくれた?そんなんあかん。ちゃんと私の誠意にも応えてくれんとあかんのや」
とよく解からない悦子の言葉を耳にしながら幸作は少し羽目を外し過ぎた自分を悔やんだ。さらに悦子は言葉を続ける。
「ただ、私も沙耶がそんなグループに関係してるとは知らんかった。新聞読んでびっくりや。ただ私は沙耶が生命保険だけでなく、年寄りのいろんな情報をかき集めてあちこちの老人介護施設や葬儀社などにそれを提供しているのは分かってたんで、警察にそれとなく言ってやっただけや」
と言った時、幸作は先日悦子にポストに投函するよう頼まれたことを思い出した。悦子は沙耶が少し早めに退社する時は情報を誰かに提供する事を察知していたのかも知れない。また、幸作が溺れている沙耶の別の顔を幸作に見せつけようとしたのか。そんな幸作の思考を停止させるかのように悦子はさらに言った。
「あんたが沙耶に手を出さんかったらあんなタレコミみたいなことはせんかったわ。私があんたにあれほど尽くしてやったのに、その間も沙耶に手も足も出してたやなんて何考えてるんや。ほんまよう言わんわ」
と顔を真っ赤にして次々に言葉が出てくる悦子の口もとを見ながら、幸作はこれでもうあの熟れた沙耶を抱けなくなるのかと思うとたまらなく悔しさがこみ上げてくるのだった。
そんな自分勝手な幸作だったが、逮捕された野元一太が茶髪の男だという事、それに自分が和枝に対する脅迫の容疑が掛けられていることに気づいていなかった。


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