ご近所ミステリー24仲の良い高齢夫婦

あらすじ:
 今年三月末市役所を定年退職した多田丸克敏は多少不満はあるものの、それなりに悠々自適の生活を送っていたが、ある日、元同僚の楡山康太から電話がかかってきた。近所では仲の良い高齢夫婦で知られている星岡誠二に変な噂があるというのだった。
ご近所ミステリー第二十四弾です。読んで頂ければ幸いです。

 今年三月末地元の市役所をヒラで定年退職した多田丸克敏は「周りを見るとオレより年上の男連中の多くは「生涯現役」だとか「社会貢献」だとか言いながら、女々しく仕事にしがみついているが、オレに言わせれば老害だ。若い人間の職を奪って何が嬉しいんだ。所詮カネか保身なんだ。潔く一線から身を引き、時が来ればこの世からひっそり消えて行く。これが人の世だ。これがオレの美学だ」などと一人呟いているが、心の中は穏やかではない。
 日々、「あんたが稼いでいた頃は」で始まり「今は稼ぎが無いんだから」で終わる妻知美から耳の痛い話ばかり聞かされるだけでなく、しばしば「稼ぎのない男はアカンわ」となぜかそこだけは関西弁を使ってこれ聞こえよがしに誰かと電話で話す妻の声が嫌でも入って来る。
そればかりではなく同居人のような妻はこれ見よがしに「主人在宅ストレス症候群」とか「夫源病」と言った本を読んでおり、少しでも体に触るとすかさず「それセクハラよ!」と返ってくる。時には、一人気ままに余生を送りたいと思うが、毎日の食事の事や煩わしい近所との付き合いなどを思うとやってゆく自信が無い。
 一時、そんな妻から逃れ、気分転換に図書館や文化センターのような所で読書をしたり法律の勉強もしてみたが、ニオイで分かるのか彼と同じような男がそばにやって来るのだった。何度か顔を合わせ目礼などしていると「食事でもしませんか?」とくる。付き合うと、まず「年金」の事を聞かれる。これで大体のことが分かる。それで「リタイアした」と言えば、次に「退職金」の話になり、ついには「それだけもらっていたら奢ってくれよ」、さらには「少しばかりカネ貸してもらえないかな?」と言うようなことが二、三回あり外出するのも良し悪しだった。悠々自適と言っても自分で時間をコントロールするのも結構大変である。
 それに比べいつも感心するのは近所に住んでいる高齢の夫婦である。我が家と同じく子供達はすでに独立しており、二人暮らしで時たま子供が帰ってきているのか車が止まっていることもあった。克敏は彼らが夕方しばしば近所を散歩するのを見かけていた。男性の足が少し不自由で、杖をついて歩いているが、必ずその横には奥方が男性の腕をつかみ、ぴったり寄り添いゆっくりと歩いている。二人とも七十前後でともに上品な感じがして、小奇麗な奥方はいつも少し濃いめの化粧をしているようだった。
 最近知ったのだが、二人とも元中学の教員で、現在、男性の方は市の教育委員会で週数回、教育相談を担当しており、奥方の方は様々な学校で非常勤のスクールカウンセラーをしているとの事だった。彼ら二人とも評判が良く、彼らは市の広報誌にも毎月「近頃思ふ事」と言うタイトルで奇数月は男性が、偶数月は奥方がともに「ジェンダーレス社会の実現」をテーマに寄稿していた。
 克敏にはイマイチよく分からない横文字の気がしたが、その広報誌の中で市長が「お二人は身近な例を取り上げ常に男女共生への大事なヒントを私達に提供してくれている」と絶賛していた。ある意味、そんな市の有名人でもある二人だが、腰は低く道で出会ってもいつも彼らからにこやかに挨拶をしてくれた。

 ところがある日、市役所の元同僚の楡山康太から克敏に電話が入った。彼は楡山の絡みつくような声を聞くなり複雑な感情が蘇ってきた。
 楡山とは定年二年前に市民課から配属換えになった交通安全課の元同僚で克敏より五つほど年下だった。克敏は彼が何かにつけて近づいてくるのが鬱陶しい時もあったが、上司や課内の人間関係などの情報をそれとなく教えてくれた。とりわけ克敏の苦手なパソコン操作を気軽に教えてくれたことは助かった。だが、時が経つにつれて楡山が克敏に近づいてきた理由が分かってきた。どういう訳か、楡山は同じ課内の楠田幸弘に言葉尻を捉えられたり罵詈雑言を浴びせられたりしていた。平たく言えば何かにつけて楠田にイジメられているのだった。そんな楡山は克敏のそばを離れず、普通の用件も声を潜めて話すこともあった。そして気づいた時には、いつしか楠田のターゲットは克敏に変わっていた。課の会議でも楠田は露骨に克敏を攻撃した。定年までの二年間をただ大過なく過ごせさえすればいいと思っていた克敏にとっては理不尽な事だった。しかもそのおかげで、楡山は安全地帯に逃げ込む事が出来、克敏は楠田から謂れのないイジメに遭い定年まで地獄のような日々を送ったのだ。その楡山からの電話だった。
 「多田丸さん、ご無沙汰しております。楡山です。お元気ですか?」
と言った後、身構える克敏に予想もしていないことを言った。
 「ところで多田丸さん、星岡誠二さんをご存知ですか?」
 「星岡誠二さんと言ったら、ウチのそばに住んでる高齢の?」
 「そう、そうです。多田丸さんが星野誠二さんの近くにお住いと思ったので電話させてもらったんです」
 「あの人、市の広報誌にも寄稿している有名人だよね?」
 「そうです。やっぱりご存知でしたか。星岡さんは長年教育相談ばかりでなく、ずっと以前から男女共生のジェンダーレス社会を提唱されており、市の栄誉市民に推薦しようと役所では内々に進められているのですが、実は最近妙な噂を聞きましてね」
 「どんな?」
 「多田丸さんだから率直に言いますけど、教育相談室に女性と長時間籠ったきり出てこないとか、廊下の片隅でこっそり携帯で女性に電話をしているところを職員に何度か見られているんですね」
と言うのだった。
 「へえ~、それで?」
 「いや、多田丸さんの近所で星岡さんの何か変な噂と言ったものがあるのかどうかお聞きしたかったんですが」
 「オレ自身、定年後は悠々自適で家にいることが多いが、変な噂は聞かないよ。それどころか星岡さんは奥方と一緒に仲睦まじく散歩している姿をよく見かけるが、別に問題あるようには全く見えないけどね」
と言って克敏は電話を切った。楡山の事だから厄介なことを言い出すのかと思ったが、予想外の事で多少ホッとした。ただ詳細は分からないが、もし教育相談と言いながら女性と長時間部屋に籠っているとすると問題だとは思った。

 そんなある日の事、遠くに住んでいる娘から戸籍抄本を取ってくれと言われ、克敏は久しぶりに市役所に行った。その時、ふと以前勤務していた交通安全課に行き、そっと楡山や楠田の様子を見てみようと思った。エレベーターではなく階段を使い柱の陰から交通安全課を眺めると、配属換えもなく二人は交通安全課にいた。しかも席が隣り合っており、二人はともに歯を出して大笑いしていた。
 その後、戸籍抄本の申し込みを済ませ待合で呼ばれるのを待っていると、廊下の片隅で楡山と高齢の女性がゆっくり歩きながら話をしていた。その二人の様子はいかにも秘密の話をしているカムフラージュにも思えた。その高齢の女性に克敏は見覚えがあった。星岡誠二の奥方だった。その光景は克敏には何となく納得がいかなかった。先日、楡山は克敏に星岡誠二について電話して来たのだった。その楡山が奥方と何やら話をしているのはどう考えても奇妙な光景だった。
 その日、帰宅すると子供会の廃品回収に出す雑誌などを入れてある段ボール箱から以前の市の広報誌を数冊取り出してざっと目を通してみた。星岡夫妻による「近頃思ふ事」というリレー対談が掲載されていた。
 星岡誠二の文章には「・・・お互いの役割の特性を・・・」や「・・・お互いの役割を尊重する中で・・・」「・・・伝統的な役割を礎にして・・・」と言うように役割と言う語が目に付く。一方、奥方の星岡秋江の文章には「・・・不変的な平等を維持し・・・」や「・・・互いの尊重すべき平等を・・・」「・・・縛られない平等を・・・」などと平等という言葉が目に付いた。手段方法は異なるが、結論として「ジェンダーレス社会の実現」にたどり着くのかもしれないが、克敏の頭ではこの二人が価値観を共有しているとは思えなかった。言い換えれば、総論賛成各論反対と言うような気もした。さらにこの広報誌を読んでいると、最後のページに小さな文字で【星岡秋江さんのセミナーのお知らせ】とあり、毎月第一と第三土曜日の午後二時から市文化センターで開催しているなどと書かれてあった。その小さな記事に克敏は少なからず驚いた。そう言えば、最近妻は今までとは異なり、出かける時、克敏に行き先を言わないようになり、しかも土曜日の昼過ぎに外出することが多くなった気がするのだった。

 克敏は何も言わず時が来るのを待った。そして当日の午後、妻が黙って出て行くのをテレビを見ているふりをしながら確認した。妻が出てから一時間ほど経過した時、克敏は市文化センターまで車を走らせた。文化センターの入口には小さな立て札があり、[星岡秋江セミナー於第三小会議室]とあった。克敏はセンターの中に入り、トイレを探すふりをしながら、小会議室のドアの隙間から中を覗いた。そこには見覚えのある星岡秋江を囲むように車座になって十名ほどの中高年の女性達がいた。妻の知美も星岡秋江のそばでノートを取りながら座っていた。そこに一人の男性が座っている女性達に一冊ずつレジュメのようなものを配布していた。室内の後ろの方にいたためか、ドアの隙間からは見えなかったのだ。その男は楡山康太だった。<だから楡山はあの時、市役所の廊下で星岡秋江と話していたのか>と克敏は思った。
 その日も星岡秋江は濃いめの化粧をしていた。だがこのようにドアの隙間から見ると光線の加減なのか、目の周りのくまが透けて見えるようだった。その時、奇妙な感覚を覚えた。世間ではおしどり夫婦と呼ばれているものの実際は口も利かぬ不仲の夫婦だったというのは世間でざらにあることだからだ。
 その翌日も夕方、仲睦まじく二人寄り添って散歩をする星岡夫妻を目にした。そんな彼らを遠目で見ながら、克敏は彼らに強い興味を覚えた。だが、その後は不思議なことに、この近所で彼らを見かけることは無くなったような気がした。
 そのことが妙に引っかかっていた克敏だが、一週間ほど経ったある日、ふと直接星岡誠二とそれとなく話をしてみたくなった。夕食にはまだ少し時間があり妻も買い物から帰っていなかったので、克敏は思い切って家を出た。少し歩いた後、星岡宅の玄関に立ちベルを鳴らした。だがなかなか反応が無かった。しばらくしてようやく元気のない星岡が姿を現した。予想外に乏しい明かりに映る貧相な星岡は市の広報誌に寄稿している市の有名人には程遠かった。ましてや楡山が言っていた市の栄誉市民云々とはまさに別人のように思われた。星岡は克敏を凝視するが認識できないように思われたので、克敏は
「私、この近所に住んでいます多田丸克敏と言います。市の広報誌に寄稿されているおたくの文章を読ませて頂いています」
と言うとようやく星岡の顔に表情が浮かんだ。それにつられ克敏はつい
 「奥方は?奥方も寄稿されてますよね?」
と言った。お互い目を合わせながら数秒ほど奇妙な沈黙があった。星岡はあたかもすべて悟ったかのように
 「ここでは何ですから、中に入りましょうか」
といって克敏を薄暗いダイニングに案内した。そこにも奥方の姿は無かった。訝る克敏の意図を察したのか
 「妻はもう出て行きましたよ。でももう少し早く解放してやるべきでした」
と星岡は自虐のような薄ら笑いを浮かべながら呟いた。彼は不思議そうな表情を浮かべる克敏に視線を向けないで言葉を続けた。
 「この歳になって、それなりに認められているんだといい気になっていましたが、気が付いた時には孤立無援、一人ぼっちになっていましたよ。私はこのまま一人取り残されるのが怖かった。妻はゆっくり、そおっと私から離れようとしていました。そのために、いつの間にかセミナーなど開いていました。あれはね、私から逃げるために仲間を求めていたんですよ。それに対して私は暴力で引き留めるしかなかった。私はしばしば無言で背後から近づき妻の顔を殴りました。そのような恐怖で引き留めるしかなかったのです。尤もそんな私に堪りかねたのか、一度私も妻から熱湯の入ったポットを投げつけられ足を大火傷しましたけどね。とは言っても私は常に自己嫌悪で股裂き状態でした。ですから近所でも仲の良い高齢夫婦を演じるのは正直辛かったです」
と言いながら様々なことを思い出すかのように星岡は目を閉じた。少しして克敏は
 「言ってはなんですが、私、あなたについてあまり良いことは聞いていないんですよ」
 「楡山でしょ。妻は私の暴力について以前からずっとセミナーの世話役をしていた楡山に相談していたみたいですから。だから、私が女性と教育相談室に籠っていると言う噂が私の耳に漏れ聞こえて来た時、楡山がそれとなくあちらこちらに流していることは察しましたよ。だって妻から私の暴力を聞いている楡山にしても私が市の栄誉市民になれば面白くなかったでしょうから」
 「でも、あなたが女性と長時間引き籠っているというのは本当だったんですか?」
 「半分本当で半分嘘ですよ」
 「どういうことなんです?」
 「広報誌関係の女性職員から楡山の今までの不正行為について聞かされていたんですよ」
 「それで?」
 「それでって、別に何もないです。先長くない私に話をされても私にどうするエネルギーも気力もありませんよ。私は女房を引き留めておくことに精一杯でした。だが確かに楡山はせこい奴ですよ。交通安全課の前にいた広報課で、業者入札を通さず縁故で使っていた印刷業者から長年リベートを受け取っているばかりでなく、女房が開いたセミナーのレジュメ等にも広報冊子と言う名目で公金から引き出し横領していることも教育相談室で聞かされましたよ」
 「でも私が知ってる楡山はいつも同じ課の職員に罵詈雑言を浴びせられたり、イジメられていたんですよ」
 「その職員とは楡山が以前いた広報課で一緒で、交通安全課にも偶然一緒に配属転換されたみたいですね」
 「広報課でも一緒だったんですか?」
 「相談室で打ち明けてくれた女性職員はそう言ってました」
「楠田って言ってませんでしたか?」
 「そこまでは私は知らないが、以前は二人、とても仲が良かったのですが、何故か急に不仲になったと聞きましたよ。だが、言った通り私は動くつもりはない。そういったことはもうどうでもいいし、別に名誉なんて欲しくも何ともない」
と星岡は克敏の目を探るように見ながら言った。克敏から反論じみた言葉が出ない事を感じた星岡は言葉を続ける。
 「ところであんたは今日何しに来たんです?」
 「いつも仲の良いご夫婦と思っていたんですが、殴られた後のようなあざを隠す奥方の濃い化粧を見ていると、果たして近所の住民が思っているほど仲の良い関係なのかな、と思ったんです」
 「鋭いな。それで?」
 「やはり世間でよくあるような夫婦でしたね。ところでこれからどうなさるおつもりですか?」
 「ケセラセラですよ」
 「なるほど、よく分かりました」
と変に納得する克敏だった。
おそらく楠田は楡山の不正に気付いたのだろう。そして楠田は楡山に近づき、ついには一蓮托生の関係になった。だが、せこい楡山は星岡秋江のセミナーのレジュメの冊子までこっそり手を出していた。それに気づいた楠田は楡山を攻撃した。だが、所詮互いに脛に傷のある二人だから、公にはできなかった。そこに市民課から配属された克敏に楡山は近づいた。楡山が克敏に自分のことを言っていると思った楠田が克敏を攻撃して来たのではないだろうか。その克敏が退職し、何も知っていないと確信したことで、楠田と楡山は再度密かに手を結んだのかもしれない。つまり、突然楡山が克敏に電話をしてきたのは、星岡の噂云々にかこつけて克敏が自分達の不正についてどこまで知っているのか、それなりに探るためではなかっただろうか?と想像しながら克敏は二人が大笑いしている光景を思い出していた。
でも、ま、どうであれ星岡が言うように、いい歳をしたオレもケセラセラでやって行くしかないのかと克敏は思うのだった。とにかく時間だけは確実に過ぎて行く。その流れの中に溶け込んでゆくのがオレには無難でお似合いだと思いながら家に着いた。その時、一瞬<今日は土曜日だっけ?>と思った。<いや今日は水曜日だ。買い物に随分時間がかかってるんだな>と思いながら、電気の点いていない中に入った。蛍光灯のスイッチを入れるとダイニングの机の上にはノートを破ったような小さな紙切れがあった。克敏の留守の間に戻ってきた妻がこの紙切れに走り書きをしていったのだろう。「私は星岡秋江さん達とシェアハウスに入ることにしました。また私物を引き取るため、しばらくしたら連絡するかもしれません。だから探さないでくださいね」とあった。
 
 その数日後だった。朝刊に警察は市役所の交通安全課に勤務する楡山康太を長年にわたって市の広報誌を発行する印刷会社からリベートを受け取っていたという嫌疑で逮捕したとあった。さらに同課の楠田幸弘に対しても、カネの流れを知っていたかについて事情を聞いている模様であるとあった。
 この短い記事に驚いたが、あの時の星岡誠二の自虐的な薄ら笑いが克敏の脳裏に蘇ってくるのだった。


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