高梨くんのお喋りな罪【第三話】実験室の鎮魂歌
第三話
「石川さん、顕微鏡終わったよ」
カシャンカシャン
高梨くんは筆記用具一式を手に持って立ち上がったけれど、ノートの上に置いていたシャーペンを落とす。ああ、あのときはこんな音じゃなかった。あのとき生物準備室から聞こえてきたのは、何の音だったんだろう。
私はプレパラートを顕微鏡の台に置く。高梨くんの植物細胞のスケッチは、よく見ると連なった背骨みたいだった。背骨、骨、骨格標本……また思い出した。こんなところに出る訳がないのに。
調節ネジを回して対物レンズをプレパラートに近づける。限界まで近づける。
「あれ? 石川さんレンズ近づけ過ぎてない? 石川さん? あっ」
パキッ
気が付くと対物レンズがカバーガラスを押しつぶして、レンズの周りに薄いガラスが散乱していた。ボーッとし過ぎた。私の目はがらんどうか。
「やっちゃった。片付けなきゃ」
「石川さん、割れたガラスを素手で触ってはいけませんよ」
いつの間にか横に、ビニール手袋を付けた澤田先生がいた。長身でいつも爽やかな澤田先生。普段なら嬉しくて舞い上がっちゃう距離感だけど、今はそんな気分になれない。
「怪我はありませんか?」
「すみません、大丈夫です」
「それは良かった。ガラスは消耗品ですからね。結構派手に割っていますが……実験中は集中してください」
「すみません……」
澤田先生は粉々になったガラスをテキパキと片付けて、顕微鏡から対物レンズを取り外し、レンズをまじまじと見つめている。レンズをもう一度顕微鏡に取り付けて、更に視界の確認をしている。そうか、レンズが傷付いたのかもしれない。澤田先生はレンズから目を離してこちらを見る。
「対物レンズは無事に見えます。往々にして実験器具は壊れるものですが……なるべく気をつけてください」
「わかりました」
澤田先生は白衣を翻して去っていく。対物レンズは壊れていない。良かった。レンズは高級そうだもの。
「石川さん大丈夫? ボーッとし過ぎだし、顔色もそんなに良くないように見えるけど」
高梨くんが心配そうに私の顔を覗き込む。大丈夫ではない。だって。
「高梨くん、私ここでお化けを見たのよ」
高梨くんは拍子抜けしたような顔をしている。そりゃそうだ。
「石川さん、お化けなんていないよ。宇宙人ならいるかもしれないけれど。お化けなんていない。いないことの証明は難しくて、悪魔の証明って言うんだけど……」
高梨くんは斜め上を見ながらブツブツ言い出した。論点がズレ出している。私が聞きたいのは悪魔の証明なんかじゃない。
「高梨くん、話を聞いてくれるんじゃないの?」
高梨くんは怨めしそうな私の顔に気づいたのだろう。ごめんと言って、椅子に座りなおす。
「昨日、ここ生物室に忘れ物をして、放課後取りに来たのよ」
☆☆☆
辺りは暗くなっていたけれど、学校に引き返すことにしたわ。明かりは職員室くらいしか付いていなくて。誰もいない廊下って怖いのよ。私は小走りで生物室まで来て、扉を開けてすぐに電気を付けた。
この席まで来て実験台の引き出しを開けると、スマホはあったの。ホッとして、一息ついたわ。でも。
カランカラン
生物準備室から物音がしたの。少し高い音。でも、部屋の中は電気で明るくて、怖い気持ちが萎んでたのよね。私は扉をノックした。
「すみません、誰かいるんですか?」
扉の奥からは反応がなかったの。私は扉を開けた。すると。
目の前に骨格標本が立っていたの。骸骨。私より背が高い骸骨。慌てて逃げたわ。
☆☆☆
「誰かが骨格標本を移動させただけじゃないの?」
高梨くんは頬杖をついて私の方を見ている。少し眠そうだ。怪談話としてはインパクトが足りなかったかもしれない。でも。
「私ニュースを見たの。学校の骨格標本が本物の人骨と判明したって」
高梨くんの目はまだ細い。
「私、今日の朝一で生物準備室を開けたわ。骨格標本は掃除道具入れの横にいたのよ」「骨格標本って、案外高価なんだよ。20万円くらいするんじゃないかなあ」
違う、そうじゃない。
「高梨くん……私、骨格標本が動いたことが気になってるの……値段じゃないの……」
「あっ、ごめん」
☆☆☆
放課後に高梨くんと生物準備室を訪れた。
180cmくらいの全身骨格標本。私より随分背が高い。収納棚の扉を開けて今にも飛びかかってきそう。この大きさで押さえつけられたら、私は身動きが取れなくなるんじゃないか。と、高梨くんが扉を開けて、骨格標本を上から下まで観察する。
「これプラスチックだよ。人骨じゃない」
そう言われて見てみると、確かに少し光沢のあるプラスチックだ。指先、足先の小さな骨まで100個以上のプラスチックが繋がっている。そして、頭蓋骨がスタンドにプランと吊り下げられている。
「これ可動式だね」
高梨くんは手や足の骨をじゃらんじゃらんと動かしている。骨格標本の肩関節を動かして、頭蓋骨にのせポーズを作っている。が、ピンと真っ直ぐに伸びた腕を凝視している。
「なるほど」
高梨くんは骨格標本から手を離して、周りをキョロキョロと見渡す。
「高梨くん、何を探してるの?」
「探してないけど、この部屋はやけに掃除されてるなと思って」
確かに棚には埃一つない。古い建屋だから気づかなかったけれど、この部屋はとても綺麗だ。
「だいたいわかった」
「わかったの? じゃあ、動く骨格標本は……」
私は肩に下げたカバンを持ち直す。が、勢いづき過ぎて棚に当たる。
ガシャーン!!
試験管立てにかかっていた試験管を大量に落とした。床にガラス散乱。
「石川さん……これはちょっと……」
「あわわ、やってしまった。先生に連絡しなくちゃ」
急がなきゃ。先生は職員室だろうか。私は慌てて走り出そうとする。けれど足がもつれる。高梨くんが私の肩を掴む。
「ちょっと待って! 僕が行くから。転んじゃうよ。石川さんはここで待ってて。くれぐれもガラスに触らないで! 片付けも待ってて」
バタン
「何? すごいガラスの割れた音がしたんだけど?」
澤田先生が慌てた様子で入ってきた。
「また石川さん? 怪我はないか? ああ……試験管が……」
「すみません!」
私は深々と頭を下げる。これは弁償。こんな大量の試験管を割ったら、さすがに弁償。
「いや……いいんだ。形あるものはいつか壊れるから」
澤田先生はため息をつく。みんなで箒と塵取りを持って掃除をする。
「まあ……実験をすればするほど、実験器具は壊れるものだからね。壊れない実験器具なんてないさ。ここは、まあ片付いたからいいだろう。さて、石川さん」
「はい……」
澤田先生は立ち上がる。私は小さくなる。
「実験器具は壊れると言っても、君は今日は壊し過ぎた。対策は考えたかい?」
澤田先生の口調は平坦だ。優しい先生だけど、それが返って私の罪悪感を刺激する。
「実験に全然集中できていなかったからです。私がここでお化けが出ると勘違い……していて集中できていなかったからです」
澤田先生はキョトンとしている。
「対策はお化けが出ないと私が理解して、今後は実験に集中することです」
澤田先生は頬に手を当てる。
「何か全然科学的な説明じゃないんだけど、対策は取れるのでしょうか?」
「対策は取れています」
ずっと横にいた高梨くんが声を発する。
「お化けは骨格標本。そして、動かしたのは澤田先生ですよね? なぜなら、骨格標本を壊したからです」
☆☆☆
「あの骨格標本は可動式で、腕や指の関節が曲がるんですが、右腕の骨だけが動きません。瞬間接着剤のようなものでくっつけているんだと思います」
澤田先生は大きく息を吐く。
高梨くんは生物準備室を見渡す。
「この部屋、とっても綺麗なんです。先生が掃除したばかりなんでしょう。骨格標本も掃除しようとした。そのときに右腕の骨を折ってしまった。石川さんが聞いたカランカランという音は、プラスチックの骨が床に落ちた音だったんです」
澤田先生が肩を落とす。
「はあ。そうなんだよ。骨格標本を壊して気が気じゃなかったのに、扉をノックされたから、慌てて電気を消して隠れちゃったんだよなあ」
何と、あのとき扉の中には澤田先生がいたのか。息を潜めて、骨格標本の裏で闇に隠れて……それはそれで怖い。
「骨格標本の腕を落としたから、骨格標本を動かしてガラス棚の中を探したんでしょう。だから、骨格標本は扉の前に移動していた」
澤田先生は頷く。そして、タバコ吸っていい? と高梨くんに聞いて断られている。いつものキリッとした澤田先生はどこへ行ったのだ。
「俺、大学時代はハカイダーって言われてたんだよね。実験器具を次々壊すから。みんなと同じように使ってるはずなのに、俺が使うと壊れるの」
だから、私に寛容だったのか。澤田先生は髪をくしゃくしゃと触っている。ふんわりセットされていた髪は、ボサボサ頭に変わっている。
……私の秘かなガラスハートがパリンと音を立てて割れた。
「実験器具って高いんだよね。壊したら、教授は俺の怪我の心配より金の心配をするんだ。だから、自分の生徒にはそんなことしないようにと思ってさ。でも、骨格標本は高すぎて」
「だから隠蔽しようとしたんですか?」
「良くないよな。正直に校長のところに出頭するわ」
澤田先生は力なく椅子に座る。沈黙が部屋を覆う。
「……僕は骨格標本も消耗品だと思うんですが」
「え?」
澤田先生と私は同時に声を上げる。
「先生言ってたじゃないですか。ガラスは消耗品、形あるものは壊れるって。骨格標本もそうでしょう?」
「確かに言ったよ。古いガラスは見えない傷も付いてるしな」
「じゃあ、骨格標本も同じです。このガラス棚もかなり古いように見えますし、骨格標本はプラスチックでしょう。老朽化ですよ」
天寿を全うした骨格標本には、鎮魂歌を捧げるだけで良いのかもしれない。
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