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【短編小説】青じゃない

 私は青を愛しているのに、どうして青は私を拒絶するのだろう。

 青色の絵の具に触れると、手が腫れ上がるようになった。突然だ。

 まさか【青色アレルギー】というものが、この世にあったとは。空も海も描きたい。でも、青を塗る手が腫れているせいで腕が震えた。キャンバスに筆を置くと、まるで涙のように青が流れて落ちた。

 堤防に三角座りして、目の前に広がる海を眺める。目を閉じて手を胸に当てる。うん、諦めよう。筆を折ろう。

「最近、犬や猫がたくさん死んでいるのよ」

 ……人が感傷に浸っているというのに、背後から不穏な話が聞こえてくる。

「どこで死んでいるんですか?」
「村中あちこちで倒れているんだよ。怖いねえ」
「へぇ、怖いですね」

 気になる。振り向くと、おじさんが駄菓子屋のおばさんの話を深刻そうに聞いている。麦わら帽子を被った小太りのおじさんは話を続ける。

「あ、ソーダ味のアイスキャンディーを1本ください」

 深刻ではなかった。

 駄菓子屋の前で物思いにふけっていた私が悪い。もう少し海の近くに行こう。紺青の海の底に吸い込まれるように、私は堤防から降りて砂浜をフラフラと歩き出す。

 ガラン

 と、こんなところにスチール缶がっ。

 バッターン!

 サンダルが宙に舞って、視界がひっくり返る。海から空へ。淡青色。仰向けで砂に埋まる。

「痛た……」

 派手に転んでしまった。もう嫌だ。あちこち痛いし、砂まみれだし……絵も描けないし。このまま寝てしまおうか。

「大丈夫ですか。手、擦りむいていますよ」

 閉じかけた視界に割り込むように、おじさんが入ってくる。上から私を覗き込んでいるのだ。右手を持ち上げると、手のひらに赤い血が滲んでいる。クラクラする。

「水借りていいですか〜? ……駄菓子屋さんがいいって言ってるから。ほら、あっちで洗いましょう。」 

 おじさんが私を引き起こそうと右手を伸ばしてくれる。左手にはアイスキャンディー……

「ひっ! 青っ!」

 私はぎょっとして、伸ばしかけた手を引っ込める。おじさんはきょとんとしている。

「あっ、すみません……」
「いえ、立ち上がれますか?」
「はい、大丈夫です……」

 おじさんは自販機横の錆びたベンチに私を座らせて、手当てをしてくれた。先般のアイスキャンディーは皿の上で溶けて、小さな海を作っている。

「お茶もらったんですけど、飲みます?」
「何から何まですみません……ありがとうございます……」

 おじさんが持ってきたガラスコップには緑茶が入っている。カランと氷が音を立てて、冷たそうだ。コップを受け取ってありがたくいただく。緑茶のほろ苦い香りで落ち着く。隣におじさんが座る。

「僕が気持ち悪いとかではなかったんですね」
「え?」

 気持ち悪いなんてとんでもない。着ている白いポロシャツと短めに切りそろえられた髪からは、清潔感が醸し出されている。

「さっき手を取っていただけなかったので」

 おじさんは口を尖らせながら、頭をかいている。

「さっ、先程は失礼いたしました。私、青が苦手というかアレルギーを持っていまして、つい青いアイスキャンディーに驚いてしまったんです」
「青色アレルギーですか?」
「はい。美術部なのに青色絵の具が触れなくなって、悲しくて、2年生だけどもう引退しようかなって、フラフラ歩いていて。すみません」
「高校2年生? 同い年だ」
「ええっ?」

 まさかの同い年。何でおじさんだと思ったんだろう。中年太りの腹か。いや、老成した佇まいだからか。

「珍しいね。青色アレルギー。絵の具以外は大丈夫なの?」
「酷く腫れるのは絵の具だけ……って、青色アレルギーなんて、あっさり信じるの?」
「信じる。理想の嘘だから。僕はエイプリルフールに『誰も困らず・傷つない・面白い嘘をつきたい』と思っているんだけれども、君の言っていることが嘘なら、まさにそれだね」

 少し論点がずれたような気がするけれど、いい人そうだ。彼は喋り続けている。

「僕はバレーボール部でね。部活の皆とビーチバレーをしにきたんだけど、あまりに砂に埋まるからドロップアウトして、ここにいるのさ」

 重力は正直だな。彼は両手のひらを上に向けて肩をすくめる。諦めたのか……ドロップアウトか……。

『ちーちゃん、手赤くない?』
 美術部の友達にそう聞かれて気付いた。筆を持つ親指と人差し指の間が腫れていたのに。
『本当だ。何か被れたのかな? 薬塗っとけば治るよ。大丈夫、大丈夫』
 市販薬を塗って寝たけれど、治らなくて。翌日筆を持つと、痒くなってきて。
『ちーちゃん、病院行った方が良くない?』
『そんな目立つかな……』
 見て見ぬふりをしたかった右手。寝れば治る。薬を塗っておけば治る……はずもなかった。病院に行っても希望はなかった。
『アレルギーですね。お薬を出しますが、絵の具を触らないのが一番ですよ』
 薬を飲んで、明日には治っているはずと目を閉じて。でも、朝に目を開けると治っていなくて。きっと明日は大丈夫と願っても、駄目だと何度も突き付けられた。
『絵の具から遠ざからないと治りませんよ』
『でも、先生。もうすぐ絵画コンクールなんです。お薬を飲みながら続けられませんか?』
『辞めれば治ると思うし、続ければ酷くなると思うけれど、治す気ある?』

 ……顔がスースーする。涙が出そう。あれから更に悪あがきして、青色絵の具以外では腫れないことがわかった。でも、青を使えないなんて、腕に重りを付けられたように不自由。

「あれ? どっか痛い? 手以外にも怪我してる?」

 私が俯きっぱなしだったせいか。彼は眉間に皺を寄せて心配そうな顔をしている。

「ううん、怪我はしてない。何だか顔がスースーしちゃって」
「スースー?」
「ピリピリかな。駄菓子屋さんから漏れてくる冷房の風のせいかな」

 咄嗟に誤魔化したけれど苦しい。彼は顎に手を当てて考える素振りをする。嫌なことを思い出して、泣きそうなだけだって。

「おばちゃん」

 彼が駄菓子屋の奥に向かって声をかける。

「冷房のことならいいって……」
「猫が死んでたのって、もしかしてこのベンチのところですか?」

 おばさんが団扇で顔を仰ぎながら答える。

「そうだよ。言ったっけ?」

 団扇のパタパタという音が耳に残る。辺りは静かだ。彼は振り返って私の方を向く。

「動物が死んだ原因は殺虫剤だね」

 ひゅうっと冷たい風が首に当たった気がする。彼は何を言っているのだろう。

「そして、君はシアン化物のアレルギー体質じゃないのかな」
「シアン化物?」
「よく推理小説で青酸カリが出てくるでしょ。青酸カリの化合物名はシアン化カリウム。シアン化物って毒性があるものが多いし、アレルゲンにもなりうる」

 村の怪異の話が、急に2時間サスペンスドラマに変わった。頭がついていかない。

「青酸カリは聞いたことあるけれど、そんなもの私の周りにはないわ」
「現に反応してるじゃない、シアン化物が含まれる殺虫剤に。誰かが撒いた殺虫剤に」
「反応?」
「顔がスースーするんでしょ?」

 そういえば、とうに涙は止まっているのに、頬の上がスースーというかピリピリし続けている。拳を握りしめたら、背中に汗がつたっているのがわかった。彼が立ち上がる。

「このベンチから離れた方がいいね。おばちゃん、ありがとうございました」

 私も覚束ない足で立ち上げる。両手で頬に触れてみる。私、毒殺される? 顔をつかむ。プチパニックだ。歩き出した彼に慌ててついて行く。

「とりあえず警察には連絡しておこうか」

 舗装されていない道を歩いていく。ジャリジャリと石の音が響く。犬や猫は殺虫剤を口に入れて死んだということだ……。

「……殺虫剤の件はここまでしかわからないから後は警察に任せよう。ねえ、聞いてる?」

 問いかけられてハッとする。やけに猫背で歩いていたことに気付く。

「ごめん、ちゃんと聞いてるよ」
「もう。殺虫剤だってわかれば、購入履歴や目撃者から警察が犯人を捕まえてくれるよ。大丈夫、大丈夫」

 彼があっけらかんとした様子で私の肩をポンポン叩く。すると、まとわりついていたジメッとした空気が蒸発していく感じがする。

 チャリンチャリンと自転車が横を通り過ぎる。息をすると新鮮な風が入ってくる。良かった。何だか現実に戻ってきた気がする。

 海岸沿いのコンクリートの道に出ると、堤防の上で釣り竿を伸ばしている人を見かけるようになった。少し日が落ちてきて、海は赤色を帯びている。

「絵の具の件だけど、紺青はシアン化物を含む物質だから、アレルギーを起こすのも不思議じゃあない」
「青色アレルギーの正体はシアン化物ってこと?」
「可能性は高いね」
「博識だね。何でそんなこと知ってるの? 同じ高2だよね?」
「何でって……まあ、記憶力はいい方かな」

 彼の麦わら帽子が揺れる。夕日が彼の頬を赤く染める。まるで照れたように。昆虫博士の少年期って、こんな感じなんだろうか。彼は化学博士だけど。入道雲を背景に進む彼は頼もしく見える。と、立ち止まってこちらを見つめられる。

「シアン化物を含まない絵の具なら、もしかしたら大丈夫かもね」

 博士はそう言って微笑む。

 そうか。シアン化物がなければ描けるかもしれない。原因は【青】ではないかもしれない。
 
 私はまた青色を描けるのだろうか。それとも、やっぱり駄目だと、腫れた手を見て絶望するのだろうか。

 いや、絶望にはまだ遠い。もう一度試してみたい。ひっくり返ってもまだ立ち上がれる。帰ったら絵の具の成分を調べてみよう。

 右手が軽い。

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