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2024/4/14のガム

どうも。ソラです。

このガムを始めて何回か経ちましたが、いまだに趣旨を理解してるようで頓珍漢なトピックスになっていると自負しています

僕は現在大学4年で、実のところ就活も終了し、残りの単位の消化し卒論を書き、バイトと車の運転の練習を始めているんです

石川にいる方ならお分かりかと思うんですが、しっかりとした車社会なので1人1台の所有率ぐらいなんじゃないかな

僕はこんなふうに考えました

車金かかるからやだなーー
年取るたびに生きるための金がかかるなんて、世知辛いなぁ
早く自動運転の車が主流になって移動中は寝てたいなぁ

これは甘えなのかな もしかすると皆さんも一度は声に出さずとも感じたことはあるのかな

母からは子供は知らないだけで大人は生きていくためにはいろんなところで頑張っているんだと言ってました

だいたい大人になるってどういうことなんでしょうね
それって覚悟?それとも丸くなること?いったいどのタイミングで大人になるんでしょう

こんなことを考えていると、倫理で習ったマージナルマンという言葉を思い出しました。子供と大人の間でもがく人みたいな意味だったような、、

ここからは大人についての倫理観を展開していきますか 急な思いつきですがこのテーマは筆が進みそうなので


僕にとっての大人は誰なのか

人が大人をはじめに理解するのは、大抵の場合親や育ててくれた人の存在に気づく時だと思います。それが幼心に考える短小な己と別世界にいる巨人のように感じつつも、不可抗力の優しさと介入に揉まれながら自己の世界を保っていた。だから、自己も認識できていない人が違う生き物をいつの間にか認容していくその生き物こそが大人であり、僕にとっては紛れもなく親であった。

つまり大人は親であることから、大人は定職につき家族を養うことになる。補足しておきますが、家庭を持つことはとてつもない責任感が必要であることは千も承知ですし、仕事をいただけること自体とてもありがたいことです。何一つネガティブなニュアンスはありません。

僕が現在考える大人とは

もちろんこれまで他の大人と大なり小なり関わってきましたし、世間一般の認識も弁えているつもりです。でも、僕が考える大人はこうです。

大人は諦めることを美徳だと思うことから始まる だから大人はかっこいいものではない

僕にとって大人になることは自由が増えるからいいことで楽しいものだとばかり思っていました。でも、歳をとっただけ生きづらさに気づき、理性を保つことを大切にし、少ない給料からよくわからずに金が流れ出ていき、廃んでいく未来が待っている。反対に、あまりあるお金を手にし理想的な生活を送り不自由がなくなろうとも、どこか不安に感じている。

よくよく考えてみれば、子供は大人の制約によって最大限の満足感を得られているのだと思う。中には学校の理不尽な校則のようなものもあるけれども。年に数回しかもらえない数千円のキャッシュを無駄遣いせずに持ち、たまに買うコンビニのお菓子を買い食いし、小さな罪悪感となんとも言えない高揚感は今では感じられない。たまにの遠出で疲れて親の運転に揺られてグースカ寝ることも今ではどこか憚られる。

だから、給料が高くてもタワマンの最上階に住もうともいくらでも下ろせる銀行口座があろうとも、不満に感じる生活が一部でもなければ生きてる実感なんて湧かないんじゃないか。不満や不便が人生の避け難いイベントなのではないか。

まとめ

そう考えれば生きづらを感じている今の僕も、空白の時間を埋めて有意義だと言い訳できるように生きているから大丈夫だ。これからはいろんなことを知るだろう。そしてそれは天地がひっくり返るような出来事になるかもしれない。

たとえ公私を共に過ごしていて勝手に違法賭博の資金にされていたとしても、僕は変えてはいけない。僕の信念に近いものはきっとここに記されているから、変えることが大人なんだとカッコつけて諦める人にならないように。

生きづらくていいじゃないか 生きてるのに人間味がないよりよっぽどいい
みすぼらしくてもいいじゃないか 大事なものが他にあるならそれが最優先

大人にならない宣誓をここに残しておこう

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