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東日本大震災 双葉郡富岡町へ

※東日本大震災に関する内容が書かれています

先日、東日本大震災の被害を受けた双葉郡富岡町へ行ってきました。

とても自然が多く、砂浜にはゴミひとつないようなとても綺麗な町という印象でした。

JR 富岡駅
ゴミひとつない砂浜

東日本大震災の際には街に放射線が降り注ぎ、数年経った今でも一部の地域は帰宅困難区域と定められています。
私が訪れた際には、街は再建され始めており、住民の暮らしが戻ってきていましたが、街中には除染され解体された建物があったであろう空き地や学校の跡地、少し外れた場所では除染されていない建物なども残っていました。
今なおこのような状況であることを実際に見て、放射線の恐ろしさが身に染みました。

双葉町と原子力発電所


前日には伝承館へと行きました。そこで語り部の方にお話いただいた内容がとても印象的だったので、ここでも記載させていただきます。

※過激な表現や実際のお話を簡略化している箇所があります。ご了承下さい。

東日本大震災の地震は太平洋プレートと北米プレートの境界で起きました。北方から南方へと連鎖的に跳ね上げたため、地震は3分間も続いたといいます。

揺れが収まった数分後、ラジオからは津波の到達を呼びかける声が聞こえ、語り部の方はすぐに町民へ避難を促しました。この行動のおかげで多くの人が命を救われたと思います。しかし目の前で助けられなかった命、見捨ててしまった命もあったと言います。語り部さんはそのことをずっと人に話せなかったそうです。


数年が経ち、ようやく友人にその話をした時、すっと肩の荷が降りたように感じたそうです。
その経験から、自身が体験された辛いことでも、語り部として多くの人へ語る決意をしたといいます。

辛いことは1人で抱え込むものではありません。語り部さんはそう教えてくれました。

もちろん人に話そうと思えるまでにはそれぞれ時間がかかると思います。でもずっと1人で抱え込むことはとても辛いことです。いつかは人に話すことで少しずつ楽になっていくものなのかもしれません。


語り部さんのお話を聞きに身体が不自由な方も来られたといいます。その方は語り部さんに「もしもの時は自分を置いていって欲しい」と家族に伝えていると言いました。それに対して語り部さんは激しい怒りでこう伝えました。
「あなたを置いて家族が逃げられますか?あなたが逃げようとしなければ家族全員が死ぬ。だからそういう時にはまず私を助けてということが大事な家族を助けるために大切なことだ」と。

災害が起きた時にはまず自分が避難行動を起こそうという意識を持つことが大切です。
当時も多くの人がまさか津波で町がなくなるなんて思わなかったと思います。しかし、避難行動をした多くの人は命が助かりました。

避難行動を起こした結果、何も起きなかったらそれが1番良いことなのです。
もしあなたの住んでいる町で災害が起きた時、
避難場所や避難経路は頭に入っていますか?
3日間はしのげる備蓄はありますか?
日常の中でほんの一瞬、今災害が起きたらどう行動したら良いのだろうか、そう考えることが大切です。

今回、津波の被害を受けた町や放射線が降り注ぎ住めなくなった町を訪れ、資料館で資料を読み、実際に経験された方のお話を聞く中で本当に様々なことを学ぶことができました。

この日記を読んだ方が東日本大震災で起きたこと、そして大切な人を守るための防災意識が少しでも高まったらいいなと思います。

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