エピソード0 最強の微風

※注意。本小説内にはヴァサラ戦記本編のキャラクターが登場しません。其処のところ、どうか御許しください。


「なぁ。」
青緑の髪に、向かって右側の口元から目元までの、裂ける様な生々しい派手な傷が目立つ男は、食事の手を止めて切り出した。
「ん?」
一応聞いている事は示すものの、構わずにシチューを口に運ぶのは少年で、歯も、目元をほとんど覆っている黄色い前髪も鋭くギザギザである。少年の名前はカルノ。
向かい合っているスカーフェイスの男の名はナラクと言い、カルノの師に当たる人物であった。カルノは見た目通りに手もつけられない暴れん坊であるが、ナラクも見た目通りにそれを上回る理不尽で粗暴な男である。
借りた金は返さないし、トラブルの際に少しでも相手に非があれば暴力で解決する。そんな事を物心が付いてからずっと続けているので、数え切れない位多くの人間から恨みを買っていて、最早ナラクに良い印象を抱いている人間を数えた方が圧倒的に早い程である。
彼の意味が分からない程の怪力と身体能力が無ければ、とっくに誰かに殺されていてもおかしくない、そんなろくでも無い男だ。
しかし、身寄りの無いカルノを養い、国の英雄ヴァサラ軍に入隊したいと言う彼に稽古を
(実を言えばヴァサラ軍に入隊してから受けるそれより何倍もハードな)付けてやる優しさも
非常に不器用ながら持っている。
ナラクはカルノを、全く言うことを聞かないクソガキだと思っているし、カルノもナラクを「修行の度に毎回俺を殺そうとするクソ男」
だと思っている。しかし、カルノはナラクの素直でない愛情や親心を感じ取っているし、
ナラクもカルノの生意気さを、彼の個性だと受け入れて憎からず思っている。
互いに「死ね」「殺す」は飛び交う間柄だが、それでも互いに親しみのある、不思議な師弟関係なのだ。現に、カルノは今日も稽古の際に
ナラクの隙を狙って襲い掛かり、逆にボコボコに叩きのめされたのだが、全身に残っている青アザや打撲痕よりも、稽古の疲労感から来る空腹により夕食のシチューに夢中なのである。戦で負った顔の傷を理由に不倫した妻に出て行かれてから、独り身の男の料理だ。
繊細な味付けこそ無いが、具のほとんどが肉を大きくゴロリと切った物で、非常に食べ応えのある物だ。何の食材が使われているかは分からないが、出汁の旨味が染み込んでいてとても美味い。カルノはこのシチューが大好物である。育ち盛りで良く食う彼の為に、ナラクはこれを大量に作っているので、既に三杯ほどお代わりをしているが、まだ少なく見積もってもう五杯分は鍋に残っている。
「大事な事だ。聞け。」
ナラクが普段にもまして、真面目な表情でそう言った。腹を空かせたカルノにとって、普通何よりも優先されるのは食事である。しかし、師の目付きの尋常で無さを感じ取った彼は、居住まいを正してスプーンを置いた。
「何。」
聞くカルノに対して、ナラクは右の手のひらを耳に添える形のジェスチャーをした。
「だから何?」
全く伝えたい意図が分からない事に、短気なカルノは既に若干の苛立ちを覚える。
「聞け。」
「だから何だって―」
声を荒げて椅子から立ち上がりそうになったカルノを、ナラクは手で制する。
「俺の話じゃねぇ。音だ。」
「音?」
ナラクは身体能力だけでなく、目や耳といった感覚器官も非常に優れている。どちらも野山に住まう獣以上に特化しているのだ。
「…嵐が来るぞ。」
ナラクは静かに言った。
まだ陽は落ちていない。窓から良く見える夕焼けの空には、雲の一つも無い。
しかし、ナラクの口振りに嘘は無さそうだ。
カルノが耳をどれだけ澄ましてみても、小さな風の音すらしなかったが。
ナラクはふと椅子から立ち上がった。テーブルの上の食べかけの自分の皿を脇に避けて、ついでにシチューの残りが入っている鍋は台所の方へと持って行ってしまう。
何をしているのかとカルノが呆気に取られていると、ようやく遠くの方から微かな音が聞こえて来た。ずーっと連続した、長く途切れない一つの音だ。それは仮に例えるのなら、蜂の羽音に似ていた。暫くすると、その音は段々と大きくなって来た。近付いて来ているのだ。それもかなりのスピードで。
蜂の羽音にしては、もう剰りにも大きい。群れだとしても大き過ぎるし、それだと重なっているだけで、羽音が途切れているのはカルノにも簡単に聞き取れる。
ともすると、人間か馬位の大きさがある化け物みたいな蜂が接近して来ているのか?
しかし、それが嵐と何の関係があるのか。
羽音は、唸る様に低く響いて近付いていた。
それが林道を荒々しく駆け抜けながら、ナラクとカルノが住まう山小屋のすぐ目の前まで近付いたタイミングで、
「やべぇ止まらねぇッ!!」
そう言う低めの叫び声が聞こえて、
黒い大きな何かが窓硝子を突き破って、室内へと勢い良く飛んで来た。それはカルノのすぐ目の前を通過してカルノのシチューが乗ったテーブルに突進して破壊。そのまま止まらず更に入り口ドアを破壊して出て行く。
山小屋の外で、大木が何かに凄まじい勢いで衝突された轟音が響いた。
ナラクはさして驚いた様子も無く、山小屋の外へと出て行く。カルノは対照的に、何事が起こったのかと慌てて走り、後に続いた。
場所さえ違えば御神木として祀られていても不思議ではない程巨大な木の幹に、何かが半分突き刺さっていた。それが、カルノの前を通過した黒い何かの正体であるようだ。
車輪が二つ付いた乗り物らしき珍妙なそれには、見知らぬ誰かが跨がっていた。
きっと衝突の際に避ける事が叶わなかったのであろう、頭を幹にぶつけたまま、全く動いていない。
「またかよ。」
カルノの傍らに立つナラクは、全く心配している様子が無かった。
それから数秒が経って、はっとしたカルノが
無事を確かめようと駆け寄った瞬間、その人物は顔を上げて言った。
「痛ェ。やっぱノーヘルは良く無ぇ。うん。」
額から鼻から、夥しい量の血液がどろどろと溢れだしている。その人物は女性だった。
髪は濃い赤紫のポニーテール。肌は少し焼けていて小麦色である。年は二十代中盤位か。
口元まで流れ落ちて来た自分の血液を、赤く長い舌でべろりと舐め取って、黒い乗り物から億劫そうに降り立った。
―デカい。
それがカルノが抱いた、率直な感想だった。
身長がデカい。まだ十代前半の少年であるカルノには比較するまでも無い。男としてもそこそこ大きい方であるナラクと同じ位、下手したらそれより少し上かも知れない位だ。
そしてガタイがデカい。ただ身長が高くて、枯れ木の様に細いのでは無く、体格も鍛えている男位には筋肉が付いている様だ。
更に、其処に自然と目が行ってしまうほど
「おうガキ。アタシの胸がデカイって?」
眼前に、女の顔が迫っていた。
カルノは驚いて大きく後ろに飛び退いた。
「そうだよな。ボンキュッボンのダイナマイトボディーだもんな。うんうん分かるぜ。」
一瞬、心を読まれているのかとヒヤッとして途轍もなく恥ずかしくなったが、どうやらそうでは無いらしいと、カルノは落ち着いた。
ボンキュッボンと呼ぶには、女の身体付きは少々逞し過ぎた。男物の黒革ジャケットが違和感無く様になるほど肩はがっちりしているし、腹筋は紫のニットを捲って見る迄もなく
バキバキに割れている事は間違いない。
履いている黒いダメージジーンズは大腿部の筋肉でパンパンに張っていた。引き締まった尻も脂肪では無くて筋肉が主成分であろう。
「ボンッバキッガチッ」が正しい評価である。
照れ臭いので表には出さないが、女性には思春期の少年として人並みの関心があるカルノは、近くで見て当然、どぎまぎしなくも無かったが、寧ろ印象の主成分として感じ取ったのは、「滅茶苦茶強そう」であった。
下手したら、野生のヒグマに正面からの殴り合いで圧勝しそうですらある。女性としての魅力はギリ留めているに、その見掛け以上に有り余る力と覇気を感じさせる、不思議な締まった肉体である。恐らく、その筋肉の密度は並みの男の数倍は有りそうである。
やたらと得意げに頷く女に、メンタル的にもフィジカル的にも完敗した様な気がして、且つ、正直ドキドキしてまった自分が、顔が堪らなく熱い程恥ずかしくなって、カルノは悔し紛れの抵抗として、視線を女から逸らす。
「ハッハッハ。ガキは素直で良いや。」
まるで効果が無い様に、女は豪快に笑った。
「今日もド派手な登場だったな。ポイゾナ。」
ナラクが女に近付いて行って、声を掛ける。
「おぉ!ナラク!久し振り!アタシだよアタシ。ポイゾナ・スコルピ。世界三大美女、その隠された幻の四人目。いやー、対してお前はクソ地味な登場だな。ドアも窓もぶっ壊れてる寂れた山小屋からの御登場だぜ。あれか?山に籠って武者修行ならぬ忍者修行か?
あぁ、忍者だったらその地味な登場も納得が行くよな。スゲーじゃねぇか。おめでとう。お前は立派な火影だぜ。ところでよ、もしペンギンの忍者が居たら面白いと思わねぇ?
頭巾が自我持ってて喋ると面白ぇよな?
案外あれかも知れないよな?こう、今から二十年後の敵軍にいたりするかもな?未来の忍者だよ。未来の忍者?それ矛盾してるわな。
あれ、つかお前その顔の傷どうした?ド派手なイメチェンか?忍者なのに?それってd」
「分かったから落ち着け。」
鬱陶しそうに、ナラクは女の息継ぎ無しのマシンガントークを遮って制した。
「お前みたいな女の名前を忘れる方が難しい。世界三大美女は堂々と出てて有名だから世界三大なんだ。お前の登場が派手なだけだ。ドアも窓もお前が壊したし、俺は隠居してるだけで忍んではない。修行は俺のではなくて、このカルノの修行を付けてるんだ。そんな珍妙な忍者が生まれて来る訳が無い。顔の傷は戦場で負った物だ。」
こちらも噛まずに一気に言い切ったので、女―ポイゾナは満足げに拍手した。
「スゲーじゃねぇか。流石だぜ既婚者。横のガ…カルノはお前の子供か?」
「いや、嫁はこの傷で不倫して出て行った。コイツは俺と血の繋がりは無い。でも息子だ。」
カルノは内心、ドキリとした。形は無茶苦茶ながら愛情は注いでくれているとは思っていたが、まさか其処まで思ってくれていたとは
考えもしなかったからである。
それも茶化すでも無く、ナラクは平然と言ってのけたのだ。内心、誰もこの場に居なければ跳び跳ねたい位だった。
「あっそ。じゃ悪ィ事したな。お前の息子の初恋貰っちまった。」
折角良い感じの心持ちだったのに、カルノは危うく転けそうになった。
「惚れてねーし!」
カルノは慌てて訂正した。
ポイゾナはカルノのその必死な態度を見て、もっと満足げにニヤリと笑った。
「まぁ。良いや。ガキってのは総じてこんなモンよ。素敵お姉さんに望み薄な恋するモンよ。淡ぇ淡ぇ。ハッハッハ。」
「マジで惚れてねーし!酔っ払ってんのか!」
よりムキになって語気を荒くしたカルノを、
ポイゾナはやれやれと肩を竦めて、さらりと受け流した。
「コイツはいつでもこんな感じだ。」
「そーそ。アタシお喋り大好きちゃんだからよ。人と会わない分だけ止まらないんだわ。」
良く分かってる、とポイゾナは指を鳴らし、ナラクに向けて見事なウィンクを極めた。
「つかよ。あれだな。ナラクお前さ、そっちのが漢らしくて好きだぜ。えっとあれだよ。
なんちゃらはなんちゃらのなんちゃら。」
「向う傷は男の勲章、か?」
「流石だぜアミーゴ。二人の永遠の友情にもう一杯と行こーぜ。」
もう一度、次は両手で同時に指を鳴らして、
御機嫌に肩を組もうとしたポイゾナを、ナラクはひらりと回避した。
「…もう飲んでるな?」
その指摘に、ポイゾナは目を見開いた。
「…んんんそう!!お前マジ天才花丸百点パーフェクトだぜ。景品に世界三大美女からのキッスをくれてやるぜ。露出してる歯茎の方で良いか?直接ベロキスだわな。ヘヘヘ。」
明らかに後ろめたい事実を隠そうとして、ポイゾナは無理矢理なテンポで誤魔化そうと必死だ。ナラクの襟を掴んで揺さぶっている。
「要らん。この一瞬の内に三大美女の誰から席をぶん取った?」
ナラクはぐいと、ポイゾナの顔を押し返す。
「酒飲んで乗って良い物じゃなかったよな?
それ。科学都市の買ったんだったか?」
「ウーツ合金製の鎧みてーに固ぇ事言うなよな。それにこのデザートスコーピオンちゃんは、試作品を半ば強引に買ったモンだから、市場には出回って無い一点ものだぜ。」
「よりデカい罪で消そうとするな。」
ポイゾナはわざとらしい舌打ちをした。
「分かった分かった。普段のアタシならあんな危険運転はしねー。ただ酒というガソリンが注がれちまうと、フルスロットルなバーニングハートが止められねぇのさ。」
「カルノ、その黒いのを潰せ」
渾身のキメ顔とキメ台詞は、ポイゾナがかなりの美形なだけにそこそこカッコ良く仕上がっていたが、ナラクのその一言に動かされたカルノが幹に突き刺さったままの乗り物に近付いた事で、あえなく瓦解してしまった。
「よっしゃ。アタシ全然靴とか舐めるぜ?」
寧ろ天晴れな位の、見事な土下座だった。
カルノは内心、この出会ってまだ十分と経たないポイゾナの事を、そこそこ好きになりかけていた。恋愛的にでは無く(勿論顔が凛々しいタイプの美形である事も、重要な要素の一つではあるが)、人間性的に、である。
やり取りは見ていてとても面白いし、自分にはいない母か姉の様な存在にも感じられた。
少々うるさくてウザい気もするが、全く悪い人間では無い事は一瞬で理解出来た。
何より、普段は口数のそう多くないナラクの表情が、ポイゾナとの会話の中では幾分か明るく見えたのだ。まるで心の底から全てを吐き出して、何も考えずに笑い合える、数十年来の親友同士であるかの様に。気難しいナラクでさえそうなのだ。カルノが快く、ポイゾナを受け入れない理由は全く無かった。
「ポイゾナ、家ん中入れよ。どうせ来るだろうと思って晩飯のシチュー温め直してる。」
ナラクは、事も無げにそう言った。
「おぉマジ!食う食う。あんがとな。アタシ料理出来る男は大好きだね。」
土下座の姿勢から顔だけ上げて、ポイゾナはそこからバク宙を披露して立った。
力だけでは無く、身体の軟らかさとしなやかさ、バネも凄まじい様だ。

普段はナラクとカルノの二人きりの食卓に、
謎の女、ポイゾナ・スコルピが加わった。
彼女は見た目通りに良く食べた。非常に腹を空かせていたらしく、鍋に残っていた分をほとんど一人で平らげてしまった。
カルノは自分のお代わり分が無くなって不服と言えば不服だったが、それより寧ろポイゾナが居る事でより賑わいが出来て楽しいし(少々うるさ過ぎる気もする)、彼女の豪快な食いっぷりは見ていてとても爽快だった。
(「ウメぇッ!」を連呼していた。)
ポイゾナとナラクは酒を飲み始めた。カルノも水が入ったジョッキで一緒に乾杯をした。
ナラクはあまり、酒に酔うタイプの人間ではない。持って生まれたフィジカルで、肝臓のアルコール分解機能が強過ぎるためである。
まだ少年であるカルノと二人であるから、というのもあるが、寧ろそれ故に、普段は殆ど飲む事が無いのだ。
しかし、今日は一緒に飲む相手がいるからか特別酒が進んでいる。ポイゾナは世界中を医者として旅しているらしく、(とても人を治す様な器用さと繊細さを持ち合わせいる風には見えなかったが)異国の珍しい風習や、俄には信じがたい様な大冒険の話をたくさんしてくれた。三角の金の塔の近くには、人の顔をした巨大なライオンが横たわっていて、通り掛かった旅人に謎を出して来る。それに答えられなければ喰われてしまうが、ポイゾナは力押しでこれに勝った。とか。地上のバカでかい絵に描かれた怪鳥に襲われたが、これに力押しで勝った。とか。巨人族の化石を守っている末裔の戦士に生け贄として捧げられそうになったが、これに力押しで勝った。とか。
取り敢えず全て暴力で解決してきたらしい。
規模が壮大なだけで、やっている事はナラクと全く同じだなと指摘してカルノは笑った。
ナラクは苦笑したが、ポイゾナは「流石ナラクの息子だぜ!」と爆笑していた。
そうこうしているとあっという間に、楽しい数時間が過ぎて行った。内容こそ有って無いも同義だったが、ポイゾナの剰りにもなテキトーさと無茶苦茶な横暴さ加減が、カルノのツボに入ってしまい、幾度と無く呼吸困難に陥った。ナラクは普段の彼らしくも無い様な
何処か穏やかな微笑みさえ浮かべていた。
(それをポイゾナに爆笑しながら指摘され、若干マジギレもしそうになっていた。)
一時の団欒(仮)が終わり、カルノは気付けば
自室のベッドの上に横たわっていた。
自分で来た覚えは全く無い。きっといつの間にか笑い疲れて、眠ってしまっていて様だ。
それをナラクかポイゾナが、此処までカルノを起こさない様に運んでくれたのだろう。
優しい事に、布団も掛けてくれている。
その柔らかな温かみに感謝しつつ、カルノは再び眠り直そうとしたが、何となくトイレに行きたくなった。この部屋は二階。トイレは一階に降りて、外に出る必要がある。
カルノは欠伸を噛み殺して伸びをし、ベッドから立ち上がった。
自室のドアを開けて出て、階段まで近付くと
何やら二人の話し声が聞こえた。
まだ起きていて、飲んでいるのだろうか。
カルノは階段を降りながら、ふと何を話しているのか気になり、聞き耳を立ててみた。
「久し振りに、どうよ?」
ポイゾナが何かを誘い掛けていた。
「…いや、今日は疲れてるから良い。」
ナラクがやんわりと断る。
「固ぇ事言うなよなー。マジで頼む。」
「お前、旦那も子供も居たよな?」
ナラクは駄目押しの様に言った。
「…。酒飲んじまうとよ、身体が芯から熱くなって、渇きが収まらなくなんだわ。」
カルノはドキリとした。何と無く二人が言っている事が分かり、息を殺して足を止める。
「…俺じゃなくても良いだろ」
ナラクはボソリと言った。
「…いや、和尚はデカいけど真面目過ぎるから駄目だ。アサヒは良い男だが、ちと細ぇし、ヴァサラは…太陽みてーで気が引ける。アタシが手を出して良い相手じゃねぇ。」
かなり不味そうな事を言っていた。
「なぁ…ナラク。」
ジッパーを下ろし、革のジャケットを脱いだ音がした。それが床に無造作に落とされる。
「女に此れだけ言わせて、恥かかせんな。」
「…。」
ナラクは返答に困っている様だった。
「カルノが居るんだぞ。」
元々ドキドキして鼓動が早まっていた心臓が、よりいっそう大きく跳ねた。
「子供は寝たらそう起きねぇ。平気だろ。」
「…。」
更に沈黙が大きくなる。
「こんな生き方してんだよ。アタシがお前に逢えるの、これで最後かもしんねーだろ。もし最後の相手なら、アタシはお前が良い。」
ポイゾナは更に駄目押しする様に続ける。
「互いに溜まってるモンあるだろ?お互いの全部晒け出して吐き出して、一発気持ち良くなってバイバイだ。アタシ達らしい、後腐れねーフィナーレだと思うぜ?」
ナラクは数秒した後に、やれやれと、溜め息を小さく付いた。
「…一発で済まないだろ。」
「…かもな。」
「お前とやると、寿命がガッツリ確実に減ってる気がする。」
「ハハハ。そりゃ悪ぃ。…で、どうなんだ?
アタシはお前の漢らしいトコが好きだ。yesにしろnoにしろ、漢らしい回答を聞きたいね」
真剣に、ポイゾナは問う。さっきまでの、どこか少し茶化した風な様子は無かった。
「分かった。やろう。」
ヒュー、と、ポイゾナが口笛を吹く。
「どうする?此処で声を我慢してヤるのも中々乙だけどよ。」
「外に決まってるだろ。起こしたら面倒だ。」
ポイゾナはもう一度嬉しそうに口笛を吹く。
「良いねぇ。大自然の中でおっ始めるのもまた乙だわな。少々風で冷えそうだが、どうせ直ぐ熱くなっちまうだろうし。」
これも脱いじまうか、とポイゾナは言った。先ほどよりやや柔らかい布が落ちる音だったので、脱いだのは紫のニットだろう。
カルノは最早、気が気で無い。
「手でシてやろうか?それとも足?」
「全部使え。」
「…ハハ。結構な自信で。」
ポイゾナは含んだ様に笑う。
「やっぱ激しいのがお好みか?テクニカルに攻めてやっても良いぜ?」
「お前がやりたいようにやれ。」
ナラクは半分呆れた様に言った。
「おっけー。じゃあ飛びきり激しいので。お前以外の誰も耐えられないレベルのハードさでしこたま逝かせてやろう。」
ポイゾナの声は嬉しそうに、しかし同時に何処か悪戯っぽく弾んでいた。
「物みてーに乱暴に扱って構わねーからよ。
互いに熱くて忘れられない夜にしよーや。」
「…あぁ。」
ナラクも、腹を括った様にこれに応じる。
ガタッと、二人が椅子から立ち上がった音が聞こえた。足音が近付いて来る。カルノは慌てて、階段を駆け上がって身を隠した。
足音は無事に山小屋の外へと出ていった。
どうやら見付かる事なくやり過ごせた様だ。
「簡単に力尽きてくれんなよ。ナラク。アタシ一回火ぃ点いちまうと、気絶するまで止まれねぇから。そんで終わったらちゅーな。」
その言葉には、相手が必ず期待に応えてくれるであろうという信頼の様な物があった。
「それは断る」
「ハッハッハ。やっぱお前らしくて好きだぜ。全部空っぽになるまでやろーや。な♡」
口を押さえていたカルノの手に、気付けば何かが付着していた。
「…ん?」
それは自身の鼻腔から溢れんばかりに滴り落ちた、どろどろの鼻血であった。
正直、聞かなかった事にして、もう一度自室に戻って眠ろうかとも思った。
しかし、この興奮をどうにも押さえられる様な気が全くしない。僅かな葛藤の後に、カルノは己の興味と欲に正直になる事にした。
よりいっそう息を殺して足音を立てないように、一段一段を慎重に階段を降りて行く。
恐らくバレたら終わってしまう。
カルノの後の人生トータルで考えても、この時の集中力は群を抜いていた。
最後の段まで何とか音を立てずに降りきる。身体を縮こませながら、その倍の負担を心臓に掛けて、取り壊されたドアの隙間から、外の光景を覗き込んだ。

二人は、向い合わせになって立っていた。
ポイゾナは姿勢を低く構えて、ナラクは腕を拳の高さまで持ち上げている。
「…あれ?」
何だか、イメージと大きく違っていた。
ポイゾナは恐らく紫のニットの下に着ていたのであろう、黒いトレーニングウェア姿。
ナラクは普段通りの、黒の着物に頭髪と同色の、青緑色の羽織を着ている。
もっとこう…両者共に肌色で絡み合っているのを想像していたのに。
「死ねッ!」
そう満面の笑みで叫びながら、ポイゾナが一跳びで数メートル単位の距離を詰め、見るからに強烈な膝蹴りを繰り出す。
ナラクはそれを構えていた右手で横に弾き、左手をやや外回りの軌道に乗せて、拳をポイゾナの顔に放った。体重が乗った良い一撃であったが、惜しくも右手で受け止められた。
もう一度、ポイゾナが左の膝蹴りを繰り出した。今度は溝尾に入る。続けてもう一度。
これはナラクの右腕が抱え込んだ。
ナラクは右足も払って寝技か投げ技かに持ち込もうとする。しかしポイゾナの計算通りだったらしく、両腕をナラクの頭の後ろに回して固定し、引き寄せながら顔面に右の膝蹴りを―ナラクがスリップする様に、仰向けに倒れ込む事で紙一重にこれを回避した。
ポイゾナは左脚を抱えられたままである。しかし左脚を軸に身を捻って、肩車の様な体勢に瞬時に変わると右脚を曲げ、ナラクの首の前に回して固定した。ポイゾナの下半身は、数字の4の様な状態になったのである。
このタイミングで、ナラクの背中は地面に落ちた。その瞬間のやや弾む様な衝撃が加わって、ナラクの首は絞められる。
が、直ぐにそれは緩んだ。元々隙を伺っていたのか、ナラクは上体を勢い良く起こして、
ポイゾナを前方に大きく飛ばした。
ナラクの力も力であるが、ポイゾナの平衡感覚とバネも異常である。そのまま空中で膝を畳んで一回転して、両足から着地した。
ポイゾナは自身の後頭部を押さえていた。
「…痛ぇ。いや、痛過ぎ。お前、わざと石有るトコにアタシの頭を落としたろ。」
「当たり前だ。闘いを何だと思ってる。」
ポイゾナは浅く笑った。
「ヘッヘッヘ。今のムチムチ幸せ太もも絞めで落ちてりゃ、極楽に行けたのによ。」
「ガチガチ大腿部ギロチンの間違いだ。それに死んでも俺の行き先は地獄だろ。」
「今の発言で、もしアタシが閻魔様でもお前の地獄行きが決まったぜ。」
ポイゾナがからかう様に言って、掌を上に向けて、ナラクに手招きをする。
「…。」
ナラクはポイゾナの出方を伺っていた。
「…どした?ナラクちゃん。地獄がこわいこわいなら、アタシが付いてってあげまちゅよ?」
ナラクの跳び蹴りが、次の瞬間にはポイゾナの顔面へと迫っていた。
「…やべッ!」
両手を眼前でクロスさせ、何とかこれをガードしようとする。直撃は寸出の所で避ける事に成功したが、完璧に体重とスピードが乗った威力に、ポイゾナは背中から吹っ飛んだ。
7メートル程後方の樹に、叩き付けられる。
慌てて痺れる腕を取り払い、位置を確認しようとしたポイゾナの視界から、ナラクの姿が消えていた。動物的直感に従い、咄嗟に横へ身を転がす。その刹那の後に、ナラクは樹の前へと一瞬で移動しており、ポイゾナが居た位置の幹に全力の拳を叩き込んでいた。
凄まじい破壊音が静かな山中に響いて、樹の上部が砕けて折れる。
「…今のは貰えばイっちまいそうだったな。」
ポイゾナは額に少し汗をかいているが、寧ろとても嬉しそうに口角を吊り上げていた。
「早くもムキになっちまってよぉ。お姉さんに興奮しちまったのかい?ガキくせー。」
「お前、年下だろ。」
ナラクの切り返しは冷静だった。
「うっせー。精々2歳位の差だわ。誤差誤差」
ポイゾナは面倒臭そうに言う。それから地面に手を着いて、立ち上がる―と見せたが、別の動きをごく自然に繋げた。倒立する様に下半身を背面側から起こす。ナラクは屈む事で
これを避けようとする。しかし、ポイゾナは
上半身を捻る事で下半身の動きにうねりを付け、軌道を調整しながら威力を増した。
強烈な、掻い潜る様なヒールブーツの踵が、ナラクの顎を捉えた。
躰道(たいどう)という武術の、卍蹴りという
奥義である。ポイゾナは武術を誰にも習った事が無いので、これは彼女が独自の感覚で繰り出した物であった。
ナラクの脳ミソが大きく揺れる。常人ならばこの一撃で失神KO―いや最悪即死の威力だったが、ポイゾナはこれで止めない。先に着地した方の脚を軸に、身体を起こしながらそのままの勢いで後ろ回し蹴りを、ナラクの胴に放つ。―が、ナラクは繰り出したポイゾナの爪先を掴んで、これを止めていた。
脅威的なタフさである。卍蹴りは、実を言うと後ろ回し蹴りを確実に決める為の布石という面が大きかった。ナラクには一度も見せた事が無い、トリッキーな動きである。軌道を読まれる事なく、確実に当てられる自信があったので、決め手にはならずとも、次の一撃分に必要な僅かな隙を作りたかったのだ。
後ろ回し回転蹴りは、最も強い大腿部の筋肉を使用出来る唯一の技である。それを常人の数倍以上の筋肉密度を持つポイゾナが、渾身の力で使うのだ。対象が生き物で、マトモに当たれば何でも殺せる威力であった。
…が、“マトモに当たれば”である。
卍蹴りは顎を捉え、脳を揺らして時間を作るつもりであったが、如何せんナラクの体幹と
首の強度が異常であったのだ。
クリティカルヒットに十分な隙にはならず、
完全に威力が乗るよりも先に、ナラクに横から掴まれてしまった。
「うっそ。」
思わずポイゾナは苦笑した。
完全に決めたパターンのつもりだったので、
この後は考えていなかったからである。
「放してくんね?エロい事してやるから。」
な?と冗談混じりに首を傾げる。
腰が入った良い右ストレートが、ポイゾナの鼻っ柱を真っ直ぐに捉えた。
そのパンチの強烈さにぐらりと揺れ、鼻血が滴り落ちる。ポイゾナは意識を途切らせてそのまま後ろに倒れて行く―かと思いきや。
手を弛める事無く追撃の拳を繰り出そうと前に身体を出していたナラクの顔面に、不自然ではない様に助走を付けたヘッドバットを、
完全な威力で叩き付けたのである。
これでナラクの顔からも鼻血が滴り落ちた。
「おっ。気が合うな。お揃いじゃん。何?
お前実はアタシの事好きなの?」
手を振り、からかう様にポイゾナは言った。
ナラクはポイゾナの脚を解放した。それから鼻血を手の甲で拭い、唾を吐いた。唾には赤黒い血も、数本の歯も含まれている。
「あぁ。大好きだから、今からの一撃を受け取ってくれや。プレゼントだからよ。」
「ごめんなさい。貴方とはそう言うつもりじゃなくて。良かったらこれからも友達として―」
ポイゾナが御辞儀するポーズを取っている最中にも、ナラクは唸る拳をボディーに撃ち込みに来ていた。
「友達としてキィッッック!」
満面の笑みを浮かべた顔を上げながら、ポイゾナの脚が地面から跳ね上がり、ナラクの蟀谷(こめかみ)を襲った。しかしややナラクの踏み込みが速かったので、蹴りは軽く掠める程度で皮膚をごく浅く削る程度で済み、寧ろパンチが鳩尾に決まった。
ポイゾナが地面に転がった。
「…痛ぇ。」
数秒間、仰向けになったまま動かなかった。
「…」
ナラクが起き上がるのをただ待っていると、
ポイゾナはようやく口を開いた。
「なぁ見ろよ、ナラク。星が綺麗だぜ。」
思わぬロマンチックな発言であった。
ポイゾナの神妙な口調につられて、ナラクも空を見上げてみた。
「星が綺麗だぜパンチッッッ!!」
阿保か。と思った。
勢い良く跳ねる様に起き上がり、ポイゾナがナラクに飛び掛かって来る。ナラクは右腕を後方に引いて、クロスカウンターを狙った。
ポイゾナの顔が、笑っていた。
彼女の両手はどちらとも“開いている”。
姿勢を獣の様に低くしたポイゾナは、ナラクのカウンターを掻い潜って腰に腕を回し、
そのままタックルで押し倒した。ナラクの腹の上に座って押さえ込み、逃げれなくする。
俗に言うマウントポジションを取ったのだ。
「お。こうやって顔を見合わせるとよ、何だか無性に照れるよな♡」
言いながら、ポイゾナは無茶苦茶にナラクの顔を殴り付ける。
「照れるから、顔面変わるまで我慢してな。」
ガードの上から八~九回殴った所で、急に腕がナラクの顔から外れた。ポイゾナは反射的に其処を狙う。しかしそれは誘導されたものであり、地面にヒビは入れたものの、首を捻って直撃を避けられていた。代わりにナラクの指を二本立てた拳が、ポイゾナの拳とすれ違う様にして突き出される。
ポイゾナは慌てて回避したが、後方に身を引いた事で僅かに重心がずれてしまい、ナラクに突き飛ばされ、脱出されてしまった。
おっとっと、と片足のケンケン立ちでよろめくポイゾナの元へ、ナラクは地面を蹴って急接近する。そのまま目を見開いているポイゾナの左頬を、腰を入れた右フックで撃つ。
ゴッ、という、骨を叩く鈍い音がした。
立て続けに、さらに揺れたポイゾナの右の蟀谷を左拳で撃つ。ただのパンチではない。
放つ瞬間に腕にネジリを加えることで、通常の体重移動に回転エネルギーを加えて威力を上昇させるコークスクリュー・ブローという技である。これもマトモに入ったポイゾナは
力に流されて、身体が回転した。
そのままふらふらと足を縺れさせて、工夫も受け身もなくポイゾナは俯せに倒れた。
「…やっとくたばったか。」
ナラクは大きく息を吐く。
ポイゾナの身体は、死んだカエルに電極を繋いだ時の様にびくんびくんと痙攣していた。
「ヒャハハハハッ…!!スゲェ…!」
倒れたまま、ポイゾナは笑った。
普通の人間であれば、ナラクのあの攻撃を喰らえば、首が折れて死ぬ。運が良くても完治が望めない負傷になるか、消えない後遺症が残る事になる。
だが、ポイゾナはげらげらと笑っていた。
可笑しくて堪らないと、楽しくて堪らないと
大声で笑っていた。
「良いな。今のはスッゲー良い…。アタシ軽くイッちまったぜ…。」
ふぅ…と、恍惚的な吐息すら漏らしている。
ナラクは呆れた―いや、三割位はドン引いている顔をして、これを見ていた。
「でもまだだ…。まだヤれるだろ?な?」
地面に手を着いて、信じがたい事にポイゾナは再び立ち上がって見せた。
「もう一回ぶっ倒れたいのか?」
やれやれ、とナラクは肩を竦める。
対してポイゾナはお構い無しに笑う。
「よし!先に絶望感をあたえておいてやろう… どうしようもない絶望感をな…このポイーザは変身をするたびにパワーがはるかに増す…その変身をあと2回もアタシは残している…  その意味がわかるな?」
ニヤニヤとして、指を二本突き立てた。
「何ーザか知らねぇが早く来い。」
「フルパワー!100%中の100%!!!」
ナラクの塩対応にも関わらず、ポイゾナは豪快に叫びながら突進した。
ナラクは目を見開いた。軽くもう一撃大きいのを入れて終わらせるつもりだったが、ポイゾナのスピードが先ほどとは段違いに跳ね上がっていたからである。
危険を感じ、回避を試みたがその隙も無さそうなので、ナラクは両腕でガードをした。
ポイゾナが出した技は肩を突き出して低軌道で放つ、ショルダータックルである。
ナラクとポイゾナは体重が殆ど等しいので、
スピードによって威力が割り増されていること、そして咄嗟の対応を迫られた事で踏ん張りが効かなかったことも有り、ナラクは大きく後方に吹き飛ばされた。
飛んだ先には大きな岩が在る。いかにナラクと言えども、この勢いで無防備に叩き付けられれば、最悪の場合、脊髄損傷は免れない。
何とか身を捻り、軽く後頭部をぶつけてしまったものの、岩の手前ギリギリの所で足から着地出来た。
が、安心したのも束の間。
先ほどとは立場が入れ替わっているとは言えど、焼き直しの様に、ポイゾナは眼前に迫って来ていた。
「…!」
「ヒャハハッ!!」
ポイゾナはボールジョイントかと言う程、異常に広い可動域で両肩を大きく廻し始める。
それはブンブンと唸る音を立てて次第に速くなって行き、距離を詰められ過ぎて左右にも逃げ場が無いナラクを目掛けて放たれる。
ナラクは今度こそ踏ん張り、全身の筋肉を硬直させてガードの姿勢を取った。しかしそれも関係無いとばかりに、ポイゾナのラッシュはヒットする。硬く、黒曜石の様にゴツゴツとした拳である。それがさながら機関銃掃射の様な速度と連続性を伴って、呼吸の隙も無い程に打ち出され続けた。ガードの上からでも骨が軋み、筋肉の繊維がブツ切りにされる様な打撃である。上半身は訓練用ウェア以外に何も着ていないポイゾナの背中には、ヒッティングマッスルと呼ばれる広背筋が、まるで眠りから目覚めた様に盛り上がっていた。
そこから腕へ、拳へと力が脈打ちながら伝わって行く様に血管が筋を立てて、熱を帯び、
それでも止まらぬとばかりにラッシュは加速を続ける。その場に踏ん張っているナラクの足は地面を抉りながら押されて行き、ついに背中は岩へと接触した。ポイゾナの一つ一つの打撃の強烈さに、ナラクの腕は熱くなり、痺れ、鈍い痛みに感覚を失いつつあった。
それでも下げれば顔面に集中砲火を食らう。
そうなればポイゾナが手を止めない限り、ナラクの顔面は陥没し、最悪の場合は死ぬ。
ナラクはポイゾナの顔を見上げた。切れた様に口角が吊り上がり、凄まじく狂暴な笑みを浮かべている。眼輪筋の血管は浮き出て、肩から腕、拳に掛けての筋肉が真っ赤にパンプアップしていた。さながら鉄道機関車の様に
加速する程熱くなっているのだ。体内に留めて置けない程の熱を放出する様に、ハッキリと見える形で、蒸気すら出ていた。
ポイゾナの拳がナラクの骨を軋ませ、叩き、
ヒビを入れながらも尚、加速を続ける。
その威力がナラクの肩や背中を突き抜けて、
接触している岩に伝導されていく。この乱打が始まってから、もう一分以上が経過した。
プロの世界トップアスリートでさえ、無酸素状態で走り切る極限の短距離走400mでも普通は45秒~50秒ほどである。 それでもゴール時は身体のあらゆる機能が限界を超過した負担に、死ぬほどの疲労が襲い掛かる。
走る事を目的とした競技でさえ、最大速度を維持する事は出来ない。どんな優秀な選手であっても、後半はかならず失速する物だ。
ポイゾナの異常性は、未だに止まる事なく加速を続けているという点にあった。それも、
“完全なる呼吸停止状態”で。
一度の息継ぎも無いまま、ラッシュと加速は続いて行く。一分十秒。一分二十秒。
まだ止まらない。一分三十秒。ナラクの身体を経由した衝撃が、ついに背後の岩にヒビを入れた。一分四十秒。ナラクの腕から、唐突にぶつんと感覚が途切れた。それでも気力だけで鉛の様に重い腕を上げたまま、耐える。
一分五十秒。ポイゾナの眼球が、真っ赤に充血した。汗が溢れんばかりに吹き出る。
二分。ナラクの腕が、折れた。それでも慈悲なく続くラッシュに砕かれる。皮膚は青染みや充血を超えて、黒々と変色していた。

―二分十秒。ナラクの気力と体力が限界を迎えて、両足から崩れた。歪な形に歪みつつある腕のガードも力なく下がり、ポイゾナの口角はそっと囁く様に、勝利を宣言した。
「…アタシの勝ちだ」
最後の一発を、ナラクの無防備な顔面に叩き込もうと一歩を踏み込み。

ポイゾナは糸が切れた人形の様に、無防備に前方に倒れた。
「…あれ?」
自分の身に何が起こったのか全く理解出来ないとばかりに、ポイゾナは言った。そしてドミノ倒しの様に、膝立ち状態のナラクを捲き込んで、ナラクは仰向けに、ポイゾナは俯せの状態に重なる。
直ぐに退こうとしたポイゾナだったが、上半身を中心に、全身の筋肉に絶叫したいレベルの激痛と、耐え難い程の莫大な疲労感が絶え間無く押し寄せて来ている。ほんの指先一つとして、彼女の言うことを聞かなかった。
「…わりぃナラク、アタシ一歩も退けねぇ。暫くこのままで良いか?」
苦笑しながら、直ぐ横にあるナラクの顔に、ポイゾナは呼び掛けた。
「俺は腕以外なら動くぞ。」
「うっそ?お前まだヤれんの?」
「双方かなり見苦しい状態だがな。」
ポイゾナは呆れた様に笑った。
ナラクが身体を傾けて、上に重なっているポイゾナを退かせようとする。
「分かったタンマタンマ。おっけー。アタシの負けで良い。」
「じゃあ終わりにするか。」
ポイゾナは咄嗟に、遮る様に言った。
「…それもタンマ。」
なんだよ、とナラクは吐き出した。
「アタシの負けで良いから、もう少しこのままで良いか?」
「…どういう意味だ?」
ポイゾナは鼻を鳴らして、再び苦笑する。
「…言わなきゃダメか?」
「意味が分からない。」
ポイゾナはそれはそれは長いため息をつく。
「多分アタシ、下手に動けば死ぬ。剰りにも無茶をし過ぎた。臓器も脳も筋肉もボロボロ。」
それなら、と、ナラクも渋々ながら黙った。
冷たい夜風が木々の間を吹き抜けて、戦いの中で焼けた鉄の様に熱くなった身体を優しく撫でて行く。山中故に街明かりも無く、自然の澄んだ空気は満天の星空を、より鮮明に、より美しく、零れ落ちそうな程に飾った。
二人の息遣いだけが、そこに在る音だった。
数十秒程、経った。
「賞品のおっぱいは堪能したか?」
ポイゾナが言い、そのまま雑に転がされる。
ナラクは起き上がり、立ち去ろうとした。
「ジョーダンは靴だけってな!ヒャハハッ!
あっ…、マジで置いていく気?ウソウソ!
ごめんってば!マジで…!?おいナラク!!」
「テメーには心の底から呆れた。」
大きなため息を付いて、背を向けたナラクは、背後からの必死の声をシカトして歩く。

カルノは、とても美しい物を見た気がした。
そして食い入る様に死闘を見つめ、トイレを待たされ続けた膀胱はもう破裂寸前だった。


真夜中の死闘から、二日後。
ポイゾナは既に、無茶をしなければ日常生活に支障が無いほどに回復していた。対してナラクの両腕の骨折は想定よりもずっと酷い物だった様で、医者が言うには殆ど粉々と言って良いレベルだったらしい。医者嫌いの本人は拒絶したが、カルノとポイゾナが点で譲ろうとしなかったので、麓の町に在る診療所で診察を受けさせる事にした。両腕が動かせない状態で一人で降りるにしては、整備されてない山はかなり危険な道のりなので、日中にポイゾナが謎の乗り物―彼女曰くデザートスコーピオンちゃん―に乗せて連れて行った。夕方頃には帰って来たが、剰りにも怪我の状態が酷いので、そこまで放置した事を医者からかなり激怒された上に、ナラクは強制的に入院措置となった、らしい。
普通であれば二度と治らないので、切除するしか無いらしいが、ナラクの頑強さと自然治癒力が異常に高いので、恐らく一週間程度で退院出来る見込み、だと。

それからはカルノとポイゾナの、一週間限定の二人暮らしが始まった。カルノは女性(しかも年上な上に顔はかなりの美人)と話した経験など殆ど無く、思春期故の変な緊張から最初の内は何となく気まずいと言うか、居心地が悪い様な感覚を持っていたが、ポイゾナと会話を重ねて行く内に、彼女がフランクで気の良い性格である事を確認出来て、割りと直ぐに打ち解ける事に成功した。性別も年齢も異なるのに、ポイゾナの価値観や笑いのツボはカルノと同世代の男の様であり、二日目には「アタシ達は親友な。」と、拳を合わせた。
夏休みの様な、一週間であった。
一緒にカヤックに乗って水生洞窟に入って探検し、吸血コウモリの群れに襲われたり。逃げる途中で殺人的な急流に流されて、図らずもラフティングになったり。
船で沖に出た海釣りで規格外に巨大なサメを釣り上げて歓喜するも、剰りにも重すぎて船に乗せると沈んでしまうので、泣く泣く諦めたり(カルノが必死に止めて、ポイゾナは駄々を「ヤダヤダヤダ!アタシ絶対にサメ君を連れて帰る!」とこねながら号泣した。)
何やら神妙な面持ちで図面を引いて素材を組み立てたかと思えば、「お前鳥人間になれ」と言って、巨大な鳥の様な物にカルノを乗せて断崖絶壁から放り出したり(ちゃんと風に乗り、何故か3kmほど進んだ。空を鳥の様に飛ぶ感覚は理屈が分からない怖さもあったが、ハッキリと言って爽快で最高だった。)
深夜に山に入って息を殺し、昆虫を捕って互いに闘わせたり(ポイゾナのカブトムシは本来絶対に生息していない、巨大な海外産ばかりだった。クソ程強かった。ポイゾナは捕まえるのもそれで生計を立てられる位に上手かった。しかし一々網で捕るのが面倒になったのか、大木を蹴って大きく揺さぶり、大量に落とす事もした。あと薮蚊に全身を刺されまくり、「殺してくれ~!」とのたうち回った。)
取って置きの怪談をして、廃墟に肝試しに行ったらマジで包丁を持った血塗れの女が出て逃げ惑ったり(足を挫いたカルノをポイゾナが抱えて、「無理無理…!」と叫んで走った。)
その後家まで命からがら逃げ延びるも、修理したてのドアを滅茶苦茶に夜通し叩きながら「出てこい!!出てこい!!」と叫ばれ、朝が来るまで布団を被って震えて抱き合ったり。
何故か毎日死ぬ様な目には遭ったが、ポイゾナとの一週間は人生で最も充実し、心と腹の底から笑って楽しめた、最高の青春だった。
(毎日言われた「一緒に風呂入ろーぜ!」だけは大変な事になるので、頑なに拒み続けた。)

そして、いよいよナラクが帰って来るという予定の前日。まだ空も白んでいる早朝に、カルノは叩き起こされた。眠い目を擦りながら起き上がるカルノに、ポイゾナは、
「タンデムツーリングに行くぞ。」と、
ニカッと輝く笑顔で言った。
後部シートにカルノを乗せて、ポイゾナの愛車は走った。カルノが体験した事もない様な
凄まじいスピードだった。唸りを上げ、風を切り裂いて進む車体。目まぐるしく変わっていく景色も新鮮で興奮した。
乗る前に「落ちたら危ないから、しっかりアタシに掴まってろよ。ケツなり胸なり、どさくさに紛れて自然に触るなら今だぜ。」と、
事も無げに言われた。当然カルノは何も言及せず、腹の前に腕を回して組み、掴まる事にしたが、それはそれでバキバキに割れた腹筋と温もりをセーター越しに感じ、かなりドキドキした。新しい癖に目覚めそうになった。
山道や林道、海沿い、町を駆け抜ける。擦れ違う人々が皆、物珍しそうにこちらを見た。
全てから解放され、自由になれた気がした。
一日中ひたすら走り回り、夕方頃の喧騒を遡っていくと、祭り屋台が並んでいた。
提灯飾りや祭り囃子に、ポイゾナはカルノ以上の大騒ぎを見せた。金魚救いは、銅貨一枚でポイを破ること無く全て捕まえて出禁を食らい、射的では絶対に倒せない様に重りを入れて細工をした賞品を、一撃で仕留めた。また出禁を食らった。わたあめや串焼き、焼きそばを焼きトウモロコシを両手に抱えきれない程持って豪快に食らう姿は、屋台のおっさん達に「そこのやたらデカいねぇちゃん、食べっぷりが良いねぇ!」と言われ、色々とサービスして貰える程であった。
全て平らげるとくじ引きに挑戦し、中々当たりが出ないので箱をひっくり返し、カスみたいな景品しか出ない事を突き止めて、ポイゾナは激昂した。くじ引き屋の店主の仲間らしき柄の悪い男達が集まって来ると、ポイゾナはほんの数秒で七人を叩きのめす。しかし、祭りの警備をしていた警邏隊が騒ぎを聞き付けてやって来たので、ポイゾナはカルノの手を掴んで逃走した。いくら鍛えている警邏隊と言えども、ただの人間ではデザートスコーピオンに追い付く事は出来ない。
怒号を背に受けながら走り去る時、カルノは恐怖で気が気で無かった。しかしポイゾナは丁度良いアトラクションだとしか思っていない様で、高々と爆笑していた。最初の内はコイツは頭がおかしいのかと怪訝に思ったが、
段々とポイゾナの無茶苦茶さがチャーミングに感じられて来て、途端に面白くなり、いつしかカルノも声を合わせて大笑いしていた。

危機感の無い逃亡劇の行き着く先は、夕暮れの海岸であった。オレンジ色の大きな太陽はもう、水平線に半分ほど沈みかかっている。
ポイゾナはテキトーな所に愛車を止めて、履いていたヒールブーツを脱ぎ、なだらかな砂の傾斜を走って下っていく。
カルノも慌てて、その後を追った。
二人はさっきどさくさに紛れて屋台からパクって来た安っぽい手持ち花火に、ポイゾナのジッポライターで火を点ける。
長い棒状の火花が散る物を互いに振りかざしたり、ネズミ花火をけしかけては熱い熱いと逃げ回ったり、ロケット花火で狙い合ったりした。大人であるポイゾナも子供のカルノも、無邪気に屈託無く笑った。
大量に盗んできたとは言え、所詮は屋台の安物花火である。残ったのは手持ちの線香花火だけとなった。一日中ツーリングを楽しみ、あれだけはっちゃけたのだ。二人はようやく自分達の疲労に気付いた様に、砂浜に並んで体操座りをした。日は殆ど沈んでいた。
波打ち際をただ眺め、1日の余韻に浸った。

そんな時間が暫く続き、ポイゾナがふと独り言の様に口を開いた。
「楽しかったぜ。」
カルノも、これに応じる。
「…俺も。」
再び、浜辺に静寂が訪れた。両者共に、相手が何かを言うのを待っているかの様だった。
いや、正確にはそれは違った。
心に思っていない事を言わないポイゾナは、―思った事を一切心に留めておけない女であるポイゾナが、わざわざ浜辺にカルノを連れて来て言いたかった内容など、ただそれだけなのである。事実彼女の視線は手元の線香花火に向けられていて、静かに微笑んだ横顔がその淡い光に照らされていた。
カルノは息を大きく吸い込んで、胸の内につっかえた物を取り払うべく意を決して聞く。
「…ポイゾナ。」
「なんだ?」
ポイゾナが顔を向けた。視線が重なる。
「その…ナラクとは、どういう関係なんだ…?」
恐る恐る訊ねるその意図に、数秒考えてから気付いたらしく、ポイゾナは吹き出した。
「ちょっと…!笑うなよ!」
馬鹿にされた様で怒ったカルノだったが、ポイゾナは余程ツボに入ったらしく、腹を抱えて身を捩った。暫くその状態が続いて、漸く手の甲で涙を拭いながら起き上がる。
「いやいや…はー、すまんすまん。あんまり可笑しかったもんでよ。どういう関係も何も、アタシとアイツはただの友達だぜ。」
「友達とその…あんな事するのか?」
カルノが思い浮かべているのは、数日前の死闘の末の光景だった。
「あんな事?…んー?何言ってんのか…」
ポイゾナは手を顎に遣り、首を捻った。
それから直ぐに心当たりが見付かった様で、
「あ…!カルノお前、数日前のあれ覗いてやがったのかよ!?」
あーあ、と、己の額を手のひらで打つ。
「ちょっとはっちゃけちまったがよ、あらー正直言って不可抗力だぜ。ナラクは、ただのダチ。お前ともダチ。一緒の事だぜ。」
あまり納得が行かず、カルノは更に問う。
「…旦那と子供がいるっていうのは?」
ポイゾナはそれを聞いて、少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、少し黙った。
「…聞いてたのか。あぁ、居るよ。」
空を見上げながら、更に続ける。
「…つーか、“居た”ってのが正しいのかな。」
カルノは、言葉を失った。迂闊に自分は、とんでも無い事を掘り起こしてしまったのだと
深く後悔した。そんな表情を見かねたのか、
ポイゾナは瞳に静かな光を湛えて微笑む。
「ガキが気にすんな。これはアタシの問題だし、旦那を亡くしたのは三年位前だ。身籠ったアタシを置いて戦場で。子供は男の子。出産後二ヶ月と無く、病気で死んじまった。」
遠い昔の事かに言うが、愛する旦那と我が子を亡くした痛みと哀しみが、たかが数年で消える筈が無い。和らいでいる筈も無い。
それはまだ、ほんの十数年しか生きていないカルノにもハッキリと分かる事だった。
―いや、ポイゾナの心に空いた穴の大きさと虚しさなんて、理解出来る筈が無かった。
「それでよ、アタシは医者になる事にしたんだ。地頭が良いからさ、たくさん勉強したら案外すぐに成れちまったぜ。色んな所を回ってさ、面白い仲間にもいっぱい出会ったんだぜ。今は差別も争いも無い、理想の国をそいつらと作るって夢もあるんだ。」
飽くまで、ポイゾナは笑顔を見せていた。
彼女が前を向いて生きているのは、恐らく本当の事だろう。しかしその元気さは、カルノに気を遣わせまいと気丈に振る舞っている様に―自分が笑顔で明るい人間であると自身に言い聞かせている様に感じられた。
「それにさ、アタシ今でも感じてるんだ。息子はまだ何処かで生きてんじゃねーか。って。大陸のとある川に死んだ子供を棺に入れて流してやると、生き返るって伝承があんだ。こういう手の物は基本信じねーんだけどよ、全くアタシも都合が良いよな。」
自虐気味に、ポイゾナは小さく笑った。
「…でも、気持ちの整理は一応付いたよ。今は色んな所を旅して人を治して。そうしてたら
きっといつか。」
言葉を詰まらせる。
「…きっと、いつかな。」
ポイゾナは顔を伏せた。
暫くそうしていたが、洟を啜って目元を指で擦り、直ぐに顔を上げた。
「はい、この話は無しだ。なーに、アタシも過去を引き摺ってる訳じゃねーんだぜ?旦那を裏切る訳にはとか、そんなのは思っちゃねーさ。単にもっと良い男が居ないだけ。」
ポイゾナは切り上げて、息を吐き出す。それから、膝に手を置いて立ち上がった。
「お。来たみてーだぜ。アタシが帰る船。」
彼女が指差す先には桟橋と船着き場がある。
其処に沖からやって来た連絡船が、一隻停泊しようとしていた。
驚いたカルノに、ポイゾナは申し訳無さそうに両手で拝むポーズを取った。
「すまん、言い忘れてた。アタシ元々は今日帰る予定だったんだよ。」
両手を頭の後ろで組み、舌を出してみせた。
「えっ!じゃあ次はいつ来るんだよ!」
カルノは慌てて、立ち上がって聞いた。
ポイゾナは桟橋に歩き出しながら、答える。
「次ね。うーん…アタシ結構忙しいからよ。」
頭をポリポリと掻いた。
「そうだな。十年後位か?」
「十年もかよ!」
ポイゾナは意外そうな表情で振り返る。
「あれ、もしかしてアタシの事、結構好き?」
カルノは慌ててこれを否定する。
「好きじゃねー!」
ハハハと爽やかに笑い飛ばし、ポイゾナは向き直って再び歩き始める。
「なぁカルノ、好きな子とかいんのか?」
藪から棒な質問がポイゾナから飛んできた。
同世代の知り合いなどそもそも一握りしか知らないが、考えてみてもその中に恋愛的な意味で好きになった対象はいなかった。
「…いねー。」
ポイゾナは何処か含みを持っている様に、そうかそうかと頷く。
「もし結婚するならよ、肌が焼けてたり褐色の胸がデケー女がオススメだぜ。明るくて良い奴が多いからよ。」
出典はアタシ、と、ポイゾナは親指で自分の顔を指し示した。
カルノは黙ってこれをスルーした。
しかし寧ろ、何処か嬉しそうに笑われた。
二人はついに、桟橋にたどり着いた。目の前には船が、いつでも出れる状態でいる。
再び、沈黙が流れる。しばらくの別れの時となれば―しかもほんのさっき、それを知らされたカルノからすれば、心の準備がまだ出来ておらず、何を言えば良いのかすら分からなかった。そもそも、仲良くなった誰かと別れる経験など全く無い為、それも当然である。
結局、カルノは何も言い出せなかった。
代わりに旅立ちに慣れているポイゾナが、自ら声を掛ける。
「強くなれよ。カルノ。」
「…うん。」
「頑張って夢叶えるんだぞ。カルノ。」
「…うん。」
一応返事はしているのだが、やはり唐突な別れとなった事が心残りなのか、カルノの返事は何処か身が入っていない。
ポイゾナは顎に手を遣って、ほんの少しだけ考え込む様な表情を見せた。
それから名案が思い付いた様に、二度頷く。
カルノは何の事かと不思議そうに見上げた。
ポイゾナは「よし、」とだけ独りごち、
いきなりカルノの前に屈んでみせた。膝を曲げた状態で高さを合わせて、顔を近付ける。

驚いて反射的に目を閉じたカルノの唇に、
柔らかく温かい感触が直接伝わった。

「…!!」
カルノは衝撃の剰り、仰け反って尻もちをついてしまった。心臓を破裂せんばかりにバクバクさせながら、慌てて目を見開く。
其処には悪戯っぽく笑うポイゾナの顔と、
彼女の唇に添えられた人差し指があった。
カルノが口をぱくぱくさせ、何か言葉を発するよりも先に、ポイゾナは船に飛び乗った。
それから船頭の人に指示を出し、直ぐ様に船を桟橋から出発させる。
「お前のファーストキスは、アタシが不完全な形で預かっといてやるよ。悔しかったら十年後、必死に強くなって取り返せば良い。」
ポイゾナはそう叫んで、見事なウィンクをカルノに極めてみせた。
「…。ぜってー超えてやるからな!!」
カルノも、自然と大きく叫び返していた。
「おう!楽しみにしとくぜ!デザートスコーピオンちゃんは預けとくな!お前のキスと人質交換だ!必ず戻ってくるから!!」
ポイゾナはサムズアップで応える。
カルノは、船とポイゾナが豆粒みたいな小ささになるまで、ずっと手を振り続けていた。


振り返ってみればポイゾナ・スコルピは酷く横暴で無茶苦茶で、理不尽で、傍若無人で。


―しかし、最高にカッコいい女であった。


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